ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』
ヘンリー・ジェイムズはイギリスの19世紀を代表する作家の一人である。
「イギリスの」と書いたが、これには語弊があって、アメリカで生まれたヘンリーは、やがてイギリスへと帰化することになる。
だから、アメリカの作家なのかイギリスの作家なのか、ナボコフと同じように定めづらい。言葉がだいたい同じなのも、この定めづらさに拍車をかけている。
ヘンリーのこの帰化の不思議さについて、昔はよくわからなかったのだけれども、今ならば、英国と米国の相違が、ヘンリーが生きた時代には明確になっていたのだろうと、推測できる。
その上でヘンリーは、単にヨーロッパの伝統に連なりたいという気持ちだけではなく、体験的にその相違を生きてみたいという気持ちになったのだろう。
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ヘンリー、ヘンリーと気安く呼ぶのは、ヘンリーの兄にウィリアムという著名な哲学者がいるからだ。
ウィリアム・ジェイムズといえば、ある種の霊的体験をも哲学的考察へと含めた人物である。プラグマティズムの祖、心理学的考察の立役者、「意識の流れ」の提唱者と、評価の高い兄の弟が、このヘンリーなのである。
ヘンリーの書く小説は難解である、と夏目漱石の頃から言われているが、それが訳されているのだから、世の中はすごい。
翻訳において、その難解さの源を探れば、構文が入り組んでいるのみならず、ナレーターが、登場人物の意識のひだにまで下りて行って、いつまでも、物語の時間が進まない、という体験をするからだと私は思っている。
また、ヘンリーは、「おんな」をフラットに描こうとしている。
男性にとって「おんな」という存在は、極めて厄介な対象で、あがめるかけなすか、無視するか執着するか、という極端な二者択一に直面しがちであったし、今もたいていはそんなものである。
それに対して、ヘンリーは、「平凡」な(チート能力が物語の主軸に置かれることなく)「おんな」を主人公クラスに配置して、その意識の多彩さを見事に描き分けてみせるのだ。
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まったく当たり前のことだが、人間とは複雑な存在である。
社会的にとるに足らないと思われがちな条件を持つ人であっても、生の時間の厚みは各人固有のものである。
ヘンリーは、そのことをよく理解しており、描き出す筆が見つめる意識の在り方は、良いものも悪いものも混在しつつ、複雑な図形となる。
日本の社会は「若者」を特権的に描きがちであり、「若者」の内面を豊富に描いてきた。それは読者としての若者が多かったことも一因である。
時に、成熟した作家の内面がそのまま「若者」の意識へと置き換えられて描かれることすらある。
ところが、「オバサン」や「オッサン」という存在になると、途端に年齢的ステレオタイプが顔を出してしまうような書きぶりがしばしばみられる。
そりゃそうだ。「若者」はまだ「オッサン」や「オバサン」を推測はできても、想起することはできないからだ。
その推測を食い破るような文章の厚みも、最近では経済的原理によってざっくりとまとめられる。「オバサンやオッサンを書いても、読者に訴求しねえんだから、可愛い女かダメな若い男でも書いておけ、それ以外はステレオタイプで文字数を使うな、薄くまとめろ、値段を下げろ」と曖昧で慇懃な言葉で指南されもするだろう。
しかるに「オバサン」や「オッサン」はどうでもいい存在として、まとめられてしまうのが常なのだ。
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ヘンリーが書く、様々な人間は、選択原理は単純であっても、そのプロセスは大変に複雑に記される。
『ワシントン・スクエア』もまた、そうだ。
若くして才ある妻と、期待をかけた息子を亡くしてしまった医師で名士のスローパー博士の元に残されたのは、器量も平凡、才能も平凡、でも「健康で丈夫な」娘のキャサリンだけである。
キャサリンは、口の上手でイケメンで金目当てで良い寄ってきたモリスという男と結婚しようとするが、父のスローパー博士は断固として許さない。
で、父を放擲して、財産なんか捨てて、モリスと結婚しようとするが、財産目当てのモリスなのだから、キャサリンを容易に裏切る。
果たして、キャサリンは独身で過ごす。
やがて父も亡くなり、その邸宅と財産を継承する。
そこに、中年になったモリスがふたたび近寄ってくる。
さて、キャサリンはどうしたか・・・?
頑固な精神(名士で有能な人物だが)、さもしい精神(才気煥発で美男ではあるが)、愚鈍な精神(善良で優しい女ではあるが)の三者の絡み合いを描いて、ヘンリーは、どの人物についても、良い所と悪い所を絡めながら、筆を進めていく。
平凡な人物たちが、これほどまでにスリリングな話に編み上げられるのは、実のところ、あまり他の例を知らない。
他のヘンリー・ジェイムズ作品が長すぎる、と思われたあなたは、『ねじの回転』の後に、『ワシントン・スクエア』を読んでみてほしい。