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退屈を自覚する

「今退屈してるな」を自覚したら、注意力散漫がマシになりました。


注意力を保つって、難しい。
特に話を聞き続けることが苦手で、すぐに集中力が切れて違うものに意識がいく。
視界に入るものがあれば、視線はそちらへ。その時やることに追われていれば、頭はそちらへ。といったように。

その自分の行為に対して、ずっと「注意力が散漫なのだ」と思い続けてきたが、まあそれも一理ありつつ、國分先生によると、それは「退屈している」のだそう。

実りある発言や提案といった、私たちの期待するものがいっこうに提供されない。時間がぐずついている。いつまでも分かりきった内容の発言が続けられ、結論はもうそこに見えているのに、議論がなかなかそこに到達しない。ここにあるのは、「結論は分かりきっているのに……」との判断を下している主体の時間と、その会議の場の時間とのズレ、ギャップである。会議室に<引きとめ>られた私たちは、自分たちの関心を惹く、実りある発言や提案がないという意味で、<空虚放置>されている。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

この言葉を借りて言い換えるなら、私は注意力散漫になる時、その場においては「空虚放置」されているということだ。

別に、どの話も集中して聞けないわけではない。
”面白い”話なら、1時間くらいでも集中して聞けることもある。
だが、想像力を使ったり頭を回転させたりする余地のない話の内容や、資料を読めば分かるようなことを反復されている時に一気に注意力がなくなる。
私はその場から逃げることもできずに<引きとめ>られ、生産性がなく<空虚放置>されているのだ。

この捉え方を知るまでは、ほぼ無意識に注意力が逸れ、他のことに関心がすーーっと向いてしまっていて、結局その時間を無駄に過ごすことが多かった。
目の前の話も大して記憶に残らず、かといって別に集中して何かができるわけではなく。

その場の最適解は「話を聞いてみる」ことで、「答えがわかっていても話を聞く、聞きながら何かを考える」というプロセスに価値があることが多い。
注意力が逸れるタイミングを感じ、「あ、今退屈してるな」と自覚することで、意識的に自分で注意を戻せるようになってきた。

これはあくまで捉え方の一つでしかないが、暇と退屈の倫理学の視点は興味深く、とても面白かった。


人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

武家社会でも同じ話だけど、人類は自由を手に入れて、非常に厳しい局面に立たされているのだなと思うことがしばしば。
とはいえ自由を知ってしまった私たちは、もう自由でない社会では生きられない。


我々は籠の中か、はたまた籠の外か。
群盲、象を評しているのかもしれない。


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