夕陽が太平洋に沈む時 【第13話】 最終話
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】
「ごめん、僕は不甲斐ない夫だったな。君を新婚初夜に外国で一人にさせてしまってどんなに不安だったか」
剛史は麻衣の手を引いてベッドに座らせる。
もし、剛史がここで私を抱いてきたら、この朝陽の中で、コニーに痛いほど鷲づかみにされた胸が照らされたならば、青あざが出来るほど吸われた首筋を見られたのならば。
麻衣は焦燥の中で考えを纏めようとする。
剛史は言う。
「タクシーを30分後に予約してある。申し訳ないが、君のものを急いでパッキングしてくれないか?」
「30分後、わかったわ」
30分、コニーに連絡する手立てはあるのかしら。同じホテルの、反対側ウィングの、下の階に住むコニーに。
麻衣は、パッキングには身が入らない。昨晩、トランクから出したものを無意識に、無秩序にトランクの中に放り入れている。
剛史は疲れているにも拘わらず、無駄のないパッキングをしている。
コニーにどうやって会えばいいのかしら。せめて、しばらくバンコクに行く旨だけでも伝えたい。無言で姿を消した男だけど、私は復讐のようなことをしたくない。
「麻衣?」
不可解そうに麻衣を見守っている剛史の視線に、麻衣は気が付いた。剛史は、それまでも何度か話し掛けていたようである。
「ホテルのタオルまでパッキングしなくてもいいんだよ」
そう諭されて麻衣は、思考が完全に停止していたことを悟った。麻衣の手は、ホテルのタオル、枕カバーまでをもトランクの中に押し込んでいた。
「大丈夫かい?今夜は寝ていないんだろう」
「ええ、でもそれは貴方だってそうじゃない。ごめんなさい、しっかりするわ」
「僕の方はもうすぐ終わる。麻衣は休んでいればいい、後は僕がやっておく」
剛史の精悍な目の上には疲れが現れている。
私ったら、なんて事を。こんなに私のことを大切にしてくれる剛史を裏切って他の男に会いに行こうとしていたなんて。本当に一体なんということを考えていたの。コニーが、あの男が、私に何をしてくれたと言うの?剛史に出逢う前の10年間、私を苦しめただけじゃないの。
「悪い男と馬鹿な女に乾杯」、数時間前、麻衣はそう言って、コニーと盃を交わした。
馬鹿なだけではなく、悪い女でもある、それが私。自分のことを棚に上げて、被害者ぶって、最低の女。そんな私を剛史は愛している、と言ってくれている。
麻衣には、剛史が堪らなく愛しく感じられて来た。ドラッカーの香りに気付かれる心配がなかったら、今すぐにも彼の疲れた背中を抱いて、疲れを癒したかった。
部屋の中の静寂は、部屋のラジオからは流れて来るエルヴィス・プレスリーの甘い声に破られている。昨晩部屋を飛び出した時、麻衣が消し忘れたものだ。しかし、今のエルビスはlove me tenderではなく、you don't have to say you love meを熱唱している。
何故、こんなことになってしまったのかしら。本来なら、剛史と二人で海岸を歩いて、エルヴィスを聴きながら将来を語り合ったりして愉しい新婚旅行になるはずだった。
「自分でパッキング出来るわ、ごめんなさい、タクシーはあと何分で来るの?」
「15分後にホテルのロータリーにて待機しているはずだ」
「あと10分で部屋を出られるようにするわ」
昨日の昼、ホテルに着いてからスーツケースから取り出したものを思い出そうとする。
昨夜からの記憶を辿っているうちに再びコニーが脳裏に浮かんで来る。麻衣の胸をもみくだした、男のがさついた手の感触はまだ残っている。自ずと胸が熱くなって来る。それは剛史に優しく愛撫された時には感じられなかった刺激であった。
麻衣は、疲れを見せないように尽力しながらパッキングをしている剛史の横顔を盗み見た。黒くサラサラの髪が横顔を覆っている。筋の通った鼻、意志の固そうな口元。
剛史の手が麻衣の身体を愛撫するとき、麻衣は安心感に抱擁される。愛されていることが実感できるからであろうか。
「あと5分だけど、間に合いそうかい?」
間に合わなかったらタクシーに待機してもらうから、というニュアンスで剛史が訊ねた。
「なんとか」
何かを忘れているかもしれないけど、基本的には、パスポート、お金、航空券さえあればいい。バンコクでは大抵のものは購入出来るわよね。
「僕はタクシーが来ているかどうか見てくるから、君はパッキングを続けていてくれよ。荷物は僕が運ぶから君はここで待っていてくれよ」
「わかったわ」
剛史が部屋を出た。
ドアが閉まったと同時に、一旦は固まった麻衣の決意は途端に揺るぎ始めた。
コニーに知らせなければ、バンコクに行ってしまうことを、でもどうやって?。今走って行ったならば間に合うかしら、いいえ、とても間に合うわけがない。
麻衣は、コニーが触れた部分の肌にエスカーダの香水を濃厚に噴霧し、スーツケーツを閉めた。
剛史には昨夜のことが知られてしまったらどうなるのだろう。剛史と過ごしたクリスマスの一夜、一夜で結婚を決めてくれた剛史。コニーのことは愛している。この11年間忘れたことはなかった。でも剛史を裏切ることは人間として間違っている。
麻衣は、再び試行錯誤の沼に嵌まりつつあった。
コニーの部屋に走りだしたい衝動は制御し難いものであったが、麻衣の脚はまったく動かない。
剛史と付き合い始めてからの一年間近く、彼は、いつだって私を助けてくれていた。あれからも何回か社員の人から嫌がらせを受けたけど、剛史はいつだって私の肩を持ってくれた。
ドアが突然開き、剛史が肩で息をしながら入ってきた。
「タクシーが着いた」、と言うなり剛史は二人のスーツケースを持ち、ドアをすり抜けて行った。
麻衣も後に続く。
剛史があと数分遅く入って来たならば、私はどうしていたのだろう。
冷房の効いたホテルのロビーを出たところでは、黒いセダンのタクシーが二人を待っていた。タイ人の中高年男性の運転手は、多少粗暴な扱いでスーツケースをトランクに押し込む。
「バンコク国際病院へ頼む」、と剛史は指示をする。
「了解」、と短く返答をしたと同時に、タクシーの運転手は、ロータリーから車を滑らせ始めた。
剛史は訝し気な表情で、隣に座っていた麻衣を振り向く。
「いやに簡単に返事をしたな、この運転手は本当に場所がわかっているのかな」
「確認してみたら?」
剛史は体を運転席の方へ多少乗り出した。
「病院への行きかたはわかっているかい?」
運転手は振り向いて言った。
「そこへは、目をつぶってもいけるくらいですよ、ここから週に一回はそこに行くお客さんがいるんだ」、と多少プライドを傷つけられたような口ぶりであった。
「一応確認を取っただけだ。それならいい」
社内会議での剛史の口調である。聞きたい事は単刀直入に訊ね、納得できる回答が得られたら、その件にはそれ以上言及せず会議を先に進める。
剛史の性格を知らぬ運転手は話を続ける。
「皮肉なことにね、お医者さんなんだよ、そのお客さん。足が一本欠けているんだけどね」
「えっ?」
思わず声を上げた麻衣を剛史は一瞥した。
麻衣はコニーのことだと直感した。一瞬、目眩がして周りが見えなくなりそうになったが、ここで剛史に何らかの疑惑を持たれてはならない。
剛史は、運転手と世間話をするタイプではない。一般的に無駄話というものを自分から好んでは始めない。
「お医者さんなのに足が欠けているの?」、麻衣は世間話の域を超えぬ声調で確認をする。
「そうそう、結婚式の日に大事故に遭って、半月間、意識を失っていたというはなしですよ。タクシーを運転しているといろいろな人に出遭いますが、あの人はまた相当不運な人ですね」
「結婚式の日」
隣のホテルにて火の舞を踊ったあとに事故に、つまり私のところに来る途中に。それならば、いつまで待っていても来るわけが無かったわけで、そして、それは本人の意思ではどうにも出来ない不可抗力であった、ということね。
麻衣は11年前のあの夜を回想する。叶に辱められたあとも諦めずに男を待っていた夜のことである。廊下で音がする度にドアに駆け寄っていた。麻衣は、絹糸のような脆弱な望みを掛けて、夜が明けるまでの一秒一秒を男を待つことに専念していた。
あの晩、男は火の舞を、おそらく見事に踊り上げ、仲間に軽く別れを言って、ホテルでシャワーを浴び、車に飛び乗った。
おそらく白いシャツを自然に着こなして、助手席にはハイビスカスの花、すぐ隣の敷地にあるホテルの駐車場に異動するだけ、その数分の行程の一体どこに危険が忍び込む余地があったの。あの辺に崖でもあったの?対向車の運転手が酔っていたの?
「麻衣!」
麻衣は、剛史に肩を揺すられて我に返った。きっと何度も名前を呼ばれていたのであろう。
「はい」
「どうしたんだ、すごい汗だ」
麻衣のこめかみのあたりから、冷たい汗が流れていた。
「気持ちが悪い」
「この辺で休めるところはありますか?」、剛史は訊ねる。
運転手はティッシュペーパーの箱を剛史に手渡しながら、返答した。
「カフェやレストランならありますが、休める雰囲気ではないですね。ホテルまで戻りますか?まだそれほど遠くまで来ていませんから」
ホテル、そう、そこが今一番私が行きたいところ。コニーの居るところ。私の責任で脚を失ったコニーの。でも剛史は、剛史はなんと言うかしら。
剛史は一瞬考え、血の気の無くなった麻衣の顔を一瞥した。
「戻ってくれ、そして様子を見よう」
「ごめんなさい、剛史」
ごめんなさい本当に。昔の男のことに剛史を巻き込んでしまうなんて、私は最低の女、モラル観念などとっくの昔にハワイの海の中に捨てて来たんだわ。こんな女が果たして剛史のよい妻になれるの、なれるわけないわね。過去を全て清算したとしても大きな借りが残るわ。剛史へ対する私の気持ち、感謝なのか、憧れなのか、あるいは、剛史は、私の孤独感を満たすための存在だったのか。
麻衣は、剛史の、あたかも愛しさと哀れみの混在したような視線を受けていた。
陽に焼けた形の良い指、結婚指輪が良く似合っている。引き締まった腕、白いストライプシャツは胸の起伏に自然に沿っている。意志の強そうな顎、多少冷たい印象を与える唇、筋の通った高い鼻、そして麻衣を優しく見守る切れ長の美しい瞳、非の打ちどころはない。
タクシーはホテルのロータリーに戻った。
「ここで待ちましょうか?」
運転手がたずねた。
「いや、君の電話番号を教えてくれないか。妻の気分が快復するまで待つ。快復次第出発するが、君をその間拘束するのは申し訳ない」
剛史はタクシーの連絡先をポケットに入れ、麻衣の背を軽く抱きながらロビーのソファまで導いた。
麻衣は、コニーの所に行く口実を何とか考えようとした。
剛史を騙すつもりはない、でもこのままコニーに会わずにバンコクに行くことはどうしても出来ない。せめてコニーに謝罪しなければならない、私のために足を失った彼を、悪い男と責めてしまったことを。
「薬を、酔い止めの薬をホテルの薬局で買ってくるわ」
「君はここで休んでいればいい、僕が行って来るよ。薬品の名称はわかるかい?」
「私、自分で薬の成分を見てみないと、アレルギー反応が出てしまう成分があるの」
これも嘘である。嘘は、すらすらと麻衣の口から滑り出すようになって来た。
今日は朝から何回嘘を付いたのだろう、それもそれほどの罪悪感も感じることなく。
「それじゃ、一緒に行くよ」
「貴方は昨日から一睡もしていないはず。お願い、薬くらい買えるから、貴方はこのソファで休んでいて。わがままな妻だけど、せめて妻としてこれくらいは夫を労わらせて下さい」
一点の濁りもない剛史の瞳、貴方のことを愛しているわ、私の夫。でもコニーのことは気が遠くなるほど愛しているの。彼の欠点も闇の部分も全て許容出来るほど。
剛史は麻衣の真摯な表情を見つめた。麻衣は心の裏まで覗かれそうで不安になる。
「了解、君は子供ではないものな。気分が良くなるまで待とう。無理もない。この国の人の運転では、通常は車酔いしない日本人でも酔ってしまうこともあるからな。そろそろ母の乗っているフライトもバンコクに到着するから先に病院に行ってもらうよ」
麻衣は軽く微笑んで、ホテルのショッピングアーケードの方へと歩いて行った。
ロビーに佇んでいる剛史の姿が視界から外れた同時に、麻衣は小走りにエレベータホールに向かった。そして、迷わずにコニーの部屋の階を押す。
エレベータがコニーの階に止まりドアが開いたとき、麻衣は、なんとなくコニーが既にここにいないことを予感した。彼の部屋に近付くにつれ、その予感は重く圧し掛かって来る。
ハウスキーピングのワゴンがコニーの部屋の前に止まっている。
「この部屋のお客さんは?」
麻衣は、ちょうど中から出て来たタイ人のハウスキーパーに訊ねる。
「義足のアメリカ人のことですか?あの人なら居ないですよ」
「居ないって、どこへ出掛けたのかわかりますか?」
「さあ、でもチップをいつもより沢山置いて行ったからもう戻って来ないと思います」
麻衣の視線はハウス・キーパーの膨らんだポケットに思わず釘付けになった、札が20、30枚は入っているような厚さである。ハウスキーパーに一日分として払う分としてはあまりにも多すぎる。麻衣は、コニーが二度とこの部屋には戻って来ないであろうことを確信した。おそらく行き先はフロントにも告げていないであろう。
二回目だ。
コニーが消えるのは今回で二回目、そして彼に再び逢えることはおそらくない。今回は、彼は自分の意志で消えたのだ。
麻衣は、よろめきながら壁を伝い、ホテルの中庭に出て来た。剛史が心配しながら待っていることは、わかりすぎることわかっている。しかし、今にも崩れそうな足元で、自覚症状があるほどの血の気のない顔、このままでは剛史のもとには戻れない。
麻衣はそのまま海の方に歩いてゆく。ホテル滞在客専用ビーチは通常からそれほど混むことはないが、この日は特に閑散としていた。雲が出てきたためであろうか。歩くたびに踵に跳ね返る少し湿り気のある砂はハワイのビーチを髣髴させる。
「麻衣」
後ろから剛史の落ち着いた声が聞こえる。
麻衣は振り向かなかった、どのような顔をして振り向いてよいものかわからない。
麻衣は灰色に変わりつつある海を見つめながら一つの言葉を反芻してい た、「最低の女、最低の女」、と。罪悪感に押しつぶされそうになっていた麻衣は剛史の瞳を直視することは出来ないと確信した。
剛史は、麻衣の肩を強く抱いてタクシーまで連れて行こうとするのであろうか。
麻衣の脚は、前にも後ろにも動かなかった。
剛史もそれ以上麻衣に近付いて来る気配はなかった。
「いろいろなことがありすぎて、君を混乱させてしまったようだね。僕は不甲斐ない夫だった」
麻衣は、「違う」、と叫びたかったがその後に続ける言葉も無かった。
「もう二泊ほど部屋を取っておくからゆっくりするといい」
「ごめんなさい」
「君は謝らなくていいよ。それと、君には男物の香水よりもいつもの香水の方が合ってるよ。君がいつも付けている香水のブランド、エスカーダだっけ?ようやく覚えたよ」
抑揚に欠ける口調にてそう言い残すと、剛史の足音は次第に遠ざかって行く。
しばらくして、麻衣はようやく剛史の後ろ姿を振り返ることが出来た。
大理石が敷き詰められたロビーを歩いていた時の剛史の歩き方は、一つのプロジェクト会議から次のプロジェクト会議に行く時の歩き方と酷似している、と麻衣は漠然と感じた。
自身が手掛けたプロジェクトが終了した時には、剛史がそのプロジェクトを振り返ることは決してない。剛史の手掛けたプロジェクトが失敗に終わったことはかつてなかったからである。
剛史の足音が聞こえなくなった時、麻衣は砂浜に座りこんだ。砂は微かに湿っていた。ハワイのあの晩のビーチのようであった。コニーの隣で、「夜の海は怖いわ」と呟いたあの晩のことだ。
海浜にて一人で何時間ほど佇んでいたのか、麻衣は時間の感覚を失くしていた。海浜には相変わらず人影が無い。
我に返った時、夕陽は大海の彼方に今にも沈みかけていた。
11年前のあの晩に戻れたら。夜のビーチで貴方に出逢ったあの時点まで時計の針を戻せたとしたら。コニー、私達は結婚式のあと一時でも離れるべきではなかったんだわ。
「コニー、貴方の声が聴きたいわ。たとえ幻聴でもいいから」
麻衣は身体に纏い付く砂を払い落としながら立ち上がる。
完