夕陽が海に沈む時
二番目の連載。 米国中西部、真夜中に国道に迷い込む女性二人の葛藤ドライブ
2023年7月発投稿 最初の連載小説
国道の二人 【第1話】 私と葉子さんはジャズ・バーを探しながらバーボン・ストリートを緩慢に歩いていた。葉子さんが、私の腕を軽く掴んだ。私の方が10センチほど背が高いのでその位置になるのであろう。 「まずは私の推察だけど、今晩あの人たちが姿を現さなかったのは、撮影が長引いてしまったからだと思うの。すごくあり得ることだと思わない?日本人はプライベートを仕事よりも優先したりしないでしょう、しかも初対面の学生達との食事なんて」 私には正式な就業の経験はなく、仕事と言えば、喫
国道の二人 【第1話】 ニューオーリンズ。 一昨日はあの街でゆっくりと寛いでいた。ほんの二日前のことであるのに、すでに懐かしく感じられる。 延々と続く黒い森、蛇行する夜中の国道。 運転に集中するために、ラジオも消した。葉子さんも熟睡している。エンジン音しか響かない闇の世界。右を向いても左を向いても黒い森が続いている。 都会の喧騒が恋しかった。日本の中華街を髣髴させるバーボン・ストリートの光の饗宴。あの中にふたたび佇んで、ダイナミックな街の雰囲気を体感してみ
国道の二人 【第1話】 葉子さんは熟睡してしまった。 そして、トラックの運転手は私達を見捨てて去った。少なくとも私にはそのように感じられた。 単調に伸びる真夜中の国道、右を向いても左を向いても黒い森に囲まれている。これが昼間であったのであれば、夏の昼下がりの柔和な木漏れ陽などに抱かれ森林浴を楽しみながらゆったりとドライブをしてゆくことも可能であったかもしれない。 何故、セントルイスで一泊しなかったのであろうか。 あの街は美しかった。中西部の中では大都会で
国道の二人 【第1話】 「どうしようか?このまま追い越して行く?」、葉子さんが緊迫した声調にて訊く。 「それは、あまりいい選択ではないと思います」 私はそう答え、車を完全停止したが、エンジンはそのまま止めなかった。 トラックの運転手の意図はわからない。しかし、彼を刺激してしまうことは回避したい。 運転手は、私達の方へ緩慢に歩いて来る。 「ピストルとか持ってないですよね」、私は葉子さんに囁く。 囁ける相手が乗っていてくれて助かった、男が近付いて来る数秒間は
国道の二人 【第1話】 思考とは、逸らそうとすればするほど、却ってその思考に焦点が押し戻される。私の場合の焦点は映画の『激突』であった。 追い越し車線があったのであれば、「是非追い越して下さい」と伝えたいところであるが、急勾配がしばらく続いているこの国道では、一車線が続き、「追い越し禁止」のサインが立っている。車道の左右には限りなく黒い森が拡がり路肩も狭い。 真夏とはいっても、日没のあとには車内の気温も下がっている。しかし、両手の平は汗を搔いている。ハンドルを握る
「葉子さん、そちらのドア、ロックしてくれましたか?」 私は、葉子さんの肩を軽く叩きながら確認を取る。葉子さんは、車が国道に滑り出したと同時にうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。その船の振れは即座に止まり、彼女は虚ろな表情で私を振り返る。 「ドアがきちんとロックされているか確認してくれますか?」 私はそう繰り返す。 自分の声に多少の苛立ちが感じられた。この苛立ちが葉子さんに伝わってくれれば幸いだと感じたが、おそらく伝わってはいないであろう。 私達は、国道に入る直
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「ごめん、僕は不甲斐ない夫だったな。君を新婚初夜に外国で一人にさせてしまってどんなに不安だったか」 剛史は麻衣の手を引いてベッドに座らせる。 もし、剛史がここで私を抱いてきたら、この朝陽の中で、コニーに痛いほど鷲づかみにされた胸が照らされたならば、青あざが出来るほど吸われた首筋を見られたのならば。 麻衣は焦燥の中で考えを纏めようとする。 剛史は言う。 「タクシーを30分後に予約してある。申し訳ないが、君のものを急いでパ
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「そうだな、そんなことを君に訊ねたこともあるな」 コニーの次の言葉は難解なものであった。 「Going for wool and coming home shorn.(羊毛を刈りに行ったが逆に毛を剃られて帰って来た)、という表現を知っているかい?」 麻衣は即座に首を振ったが、ふと、ある表現に思い当たる。 「日本語の言い回しだと、ミイラ取りがミイラになる、という感じかしら?」 コニーは哄笑する。 「ミイラ取りか、それは良いな
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 麻衣はその後の言葉が続かなかった。怒りで身体中の血が逆流し始めているかのようにも感じられる。 麻衣は思わずコニーを引っ叩こうとするが、腿の中途からばっさりと切れている脚が視界に入ってしまった途端、上に振り上げた腕から思わず力が抜ける。 「殴りたいなら殴れば良い。健康体でないからといって同情は無用だ。同情なんて却って迷惑だ」 そう言い放ちコニーは、ベッドに立て掛けてある松葉杖を取ろうとする。 麻衣は同情をするな、と言われた
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 麻衣もその女を振り返った。 まったく面識のない女ではあったが、麻衣には、あたかも彼女の悲哀が一瞬伝染したかのように感じられた。 「私もよ、私もなの。私にも貴方の心情が理解出来るわ。人を愛するということは、時にはとても悲痛な事よね」、麻衣はそう言って女を抱きしめたい心情に駆られた。 すでに夜は更け始め、時おり白いまだら泡が浮かび寄る海は薄気味悪さを演出している。 しかし、この場所がホテルの敷地であるという事実が麻衣を安心させ
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 10年前に自分がコニーに向かって唐突に切り出したその一言が、その朝、一晩を一緒に過ごしただけの男の口から発せられていた。 麻衣は、コニーに求婚した時、彼に関しては何の知識も無かった。しかし、あの時は彼が運命の男だと信じ込んでいた。彼しか目に入らなかったのだ。自制が効かないほど彼に触れたかった。 今の剛史の心境は、あの時の私と同じなのだろうか。 剛史は冷静沈着を維持したまま麻衣を見つめていた。麻衣の返事を不安そうに待っている、
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 剛史は、麻衣の問いに対して、数秒間考えを纏めているようであった。 私は彼を困惑させるような質問をしたのかしら。随分と返答に窮しているようだわ。 剛史は口を開いた。 「好みだ、好みじゃない、と単純に返答出来るような性分ならば楽なのだろうが」 「返答して下さらなくてもいいわ。貴方を困らせるつもりで言ったわけじゃないから」 「困っているわけではない。出来るだけ論理的に答えようとしているだけだ。そうだな、このような例がいいかな。こ
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 「いいわ、どんな分野だって初めての時がある。とりあえず原文に忠実に訳して、特許特有の言い回しはあとで直してもらえばいい」 麻衣は翻訳を始めた。 しかし特許明細の翻訳はそう単純にはいかなかった。何回読んでも何通りにも取れるような文章が多かった。それでもようやく1枚目の翻訳を終えた時、PCの時計は午後8時を示していた。 外資系企業であることもあり、クリスマスイブのその晩には、家族のある社員、あるいは若い女性はすでに退社していた。苦
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 ベッドは乱れ、招かれざる客の匂いが染み付いている。 麻衣はひたすら、叶の存在、声、匂い、手の感触、窪んだ瞳、麻衣の下半身で繰り広げられた行為を、拭って、洗い流して、擦り取って、記憶の中から抹消したかった。 叶を訴えるべきか。 答えは簡単には出ない。 外に立っているのが誰かを確認せずにドアを開けたことが、再度悔やまれる。 麻衣はベッドからシーツを剥がし、丸めてクローゼットの奥に押し込み、ベッドには香水を多少過剰に振り
夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】 この人は、それほど狡猾で悲愴な嘘まで付いて女を誘いたいのか、と麻衣は嫌悪感を催した。衣装合わせの時には、必要以上に麻衣の身体に触れて来る時もあった。 「小野田さん、貴方の勝手にすればいい。身に覚えがないことだから私にはどうしようも出来ないわ」 麻衣はそう言い残して席を立つ。この撮影チームとふたたび一緒に働くことはないと確信した。 「みなさん、ロケの期間中、本当にお疲れ様でした。私も少し疲れました。お休みなさい」 小野田が焦燥し