見出し画像

何度も読み込みたい『俺の文章修行』

著名な作家が書く文章論とは、どんなものだろう。

これは、町田康『俺の文章修行』を人から勧められたときに思ったことだ。文章のプロが書く文章論は、巷にあふれている。しかし、作家の文章論はあまり聞かないから、読んでみようと手に取った。

結論から言うと、『俺の文章修行』はこれまでの文章術本とはずいぶん違う。著者が文章力を会得するまでの道のりと、文章を書くときに考えていることをつまびらかに書いてくれた本、だと私は受け取った。文章本でありながらエッセイでもある、不思議な一冊。

私は文章論を読むのが好きなので、何冊か読んできた。これまで読んだ文章本は、やさしくていねいに書かれていて、読みやすさにも配慮された書籍が多い印象だ。

だから、『俺の文章修行』を読み始めたときは面食らった。文章初心者からすると読みづらいと思うほど、アクを強く感じる。なので著者独特の文体に慣れるまでに、時間がかかった。町田康ファンからするとおなじみの文体かもしれないが、初心者の私には驚きの連続だ。読みやすい文章に慣れた人が本書を読むと、中には挫折してしまう人がいるかもしれない。それほど、特徴の強い文体だ。正直、好みは分かれるだろう。

しかし、私は慣れた。
書かれている内容に納得できたからかもしれない。

例えば、読書の重要性について。
これまでの文章論の本には、文章上達には読書が必要だと書かれているものが多かった。もちろん、この本でも読書に触れられている。特に、1冊の本を何回も読むことの重要性を説いている。映画や演劇、落語、テレビ番組、動画から言葉を覚えることはないかという問いに対して、著者はこのように答える。

けれども当たり前のことだが、それらはみな言葉は言葉でも口より発せられた言葉で、字に書く言葉とはまた違う。
因りてこれを文章の中に活かすためには、口より発せられた言葉を耳で聞いて字に変換する、変換プロセッサのようなものが必要になってくる。実はこの変換プロセッサこそが文章力の本然であるので、それがない状態で落語や浪曲を何百席と聞き、これを覚えたところで文章にその言葉を活かすことはできないのである。

『俺の文章修行』より

さらに、こうも言う。

文章力を身につけたい、という仁はまず読めばよく、読んだ分量、そしてまた一冊の本をどれほど深く読んだか、に応じて手持ちの、使える言葉が増えていくのである。

『俺の文章修行』より

確かに本を1回読んだぐらいでは身につかない。身につく人がいたらそれは天才だろう。様々な本を手当たり次第読むのではなく、繰り返し読むのが大切だという。同じ本を3回以上読まない私にとっては、実に耳の痛い話だ。

この箇所を読んで、一冊の本を読みこもうと決めたので、自分を戒めるためにも記しておきたい。

また、読書経験で自らの脳に「文章変換装置」が埋め込まれ、読書のたびに性能が上がるとも述べられている。この「文章変換装置」を使えるようになるのが、文章力を上げるカギになるようだ。

おそらく、本書でいう「外付け変換装置」は、文章における小手先のテクニックだ。「仮名遣い」「一文の長さ」など、文章術で取り上げられるテクニックは確かに正しい。しかし、現実は単純ではないから、「外付け変換装置」を通した言葉のやりとりは、現実を取りこぼすことがあるそうだ。「外付け変換装置」を使ってもいいが、使用範囲の限界を知ったうえで使わないと、多くを見逃すと著者は言っている。

ここで正直に告白しよう。本書は、一度読んだだけでは理解しきれない。今もすべてを理解しているとは言いがたい。それでも本書について記事を書こうと思ったのは、これまでにあまり語られなかった町田康の文章の精神と技巧について、本人がとことん向き合って書いていると感じたからだ。作家自身が、自らの手の内を詳細に見せることは珍しいのではないか。そういう意味で貴重な一冊だと思ったので、私のつたない表現でも紹介したくて記事を書いている。

本書は、文章術の正解をバシッと出してくれる本ではない。読者に考えさせる本だ。手っ取り早く文章のテクニックを習得したい人には向いていない。著者の読書法と同じく、この一冊を何度も読み込むことで見えてくる技巧があるはずだと感じる。残念ながら、私はまだその域に到達していないので、少しでも近づけるように何度も読み返したい。

遠回りをしてでも、本書から学ぶことは多くあると信じている。


いいなと思ったら応援しよう!