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書くブレーキと書くアクセル。

やっぱり私は、自分を語るのが下手だ。

noteの記事をたくさん書いて、記事の中で自分語りをしてきているのにもかかわらず、これまで書いてきた記事は私のようで私でない気もする。
自分を語っているようで、自分を語り切れていない気がするのだ。

人に読まれることを考えて書いているからか、読みやすさや読み手に配慮した結果、ちょっときれいにまとめてしまったりすることもあった。変なところで見栄を張る私の性格が、noteにも出ている。

私は、自分を語るときにどうも、「あけっぴろげに自己開示している自分」を演じているような気がする。普段の生活では聴き手に回ることが多いので、自分を表現できるところでは思い切り出している、そのつもりだった。

しかし、どこかで気恥ずかしさが出てしまい、自分を演じないと自分を出せない。演じるということは、つまり、自分を100%出し切っていない。

自分をのびのびと表現しているクリエイターさんたちのことが、まぶしく感じる。私の心に存在するブレーキが、この人たちの心にはあるのかなぁって。このブレーキを取っ払ったら、私ももっと自由に表現できるようになるのかなって感じるときが多々ある。

黒々とした心の闇を書くのはともかく、楽しいことや面白いことだったら、ブレーキを踏まずに勢い良く書きたいなと思う。でもいざとなると、ブレーキをいつ踏んでもいいように足をかけながら、法定速度をオーバーしない安全運転で書いてしまう。書くアクセルより、ブレーキに足をかけてしまう私がいる。

心のブレーキをかけることは悪いことではないとも思う。
糸井重里さんも、ほぼ日イトイ新聞の中でこんなことを言っている。

「恥ずかしい」というのは、とても大事な感情です。
 知性があるからこそ、恥ずかしさを知っているのですし、

ほぼ日刊イトイ新聞 10月19日の「今日のダーリン」

私に知性があるのだとしたら、その知性は思い切り「恥ずかしさ」に振り切っているのだろう。恥ずかしさが大きいからこそ、自己表現のブレーキの踏み具合が強くなる。アクセルに踏みかえてもスピードの出し方が分からないのが私だ。

そういえば私、運転免許の講習でも「ブレーキ踏みすぎ」って注意されたっけ。アクセル踏めばいいところでもブレーキに足がのっているので、教官から「あなたは本当に車を動かしたいのですか?」って真顔で言われたことを思い出した。

話を戻すと、私は感情表現に思い切りブレーキをかける。それが積もりに積もって、うつ病という形で出てしまったのではないかとも思う。
言いたいことの中で、言っていいことといけないことの区別がつかず、言いたくても言えなかった。また、言ったら言ったで「余計なこと」と一蹴されるのがオチだった。

今は、言いたいことや表現したいことの一部を、文章を書くことで成仏させている面がある。不器用ながらも思いを文章にすれば、私は少しだけ心のモヤモヤを晴らすことが出来る。
私の書いたものを受け入れてくれるnoteの仲間もたくさんいる。そんな仲間に、もっと心を許して甘えてもいいのかもしれない。

時には、心のブレーキを踏まない勇気を持つことが、私の今の課題。

ブレーキじゃなくアクセルを踏んで、ぐんぐん駆け抜ける。
そんな自己表現に、私は今日もあこがれる。


なぜこんなことを書いたかと言うと、この企画に参加したかったから。

全然接点がないのに、参加させてもらっても大丈夫でしょうか?よろしければ、お納めくださいませ。

今日の記事は、完全に自分の心を整理するために書きました。
読みにくくてごめんなさい。
それでも読んでくださったなら、感謝です。

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