漫画みたいな毎日。「いいな いいな にんげんて いいな。」
人間が好きか、と問われたら、直ぐに「好きです。」と言えない。
手放しで、「好きです。」と言えたらいいのに。
そんなことを思っている子どもだった。
「大人になったら、山奥にこもって、仙人みたいな暮らしをしたい。」と本気で思っていた。人間関係に疲れた子どもだったと思う。あまりにも人間、特に大人の矛盾に巻き込まれた幼少期だった。
表面上は、楽しくやっていたし、学校での生活もそつなくこなしていた。いわゆる、「いい子」だったと思う。友だちと暗くなるまで遊んでいたし、私の子どもの頃は、習い事は今ほど盛んでなかったので、外に出れば遊び相手に困ることは殆どなかった。
その一方で、子ども時代の私は、TVの「日本昔ばなし」のエンディングテーマであった「にんげんて いいな」の歌を聴くたびに、なんとも言えない気持ちになっていた。子どもの私には、言葉ではうまく表現出来なかったが、その歌から想像される景色に、猛烈な憧れを抱いていたのだと思う。
何故、この歌にそこまで憧れを抱いたのだろう?と考えると、私は、「人のもつ根源的あたたかさ」に惹かれていたのだろうと思う。
おいしいおやつ、ほかほかごはん、狭くてぎゅうぎゅうだと笑いながら入るお風呂、そして、ほかほかお布団。こどもの帰りを待っている家、ひと。
これらは、私の中で「あたたかさ」、「安心感」の象徴なのかもしれない。
自分の育った環境にも、おやつもごはんも、狭いお風呂も、あたたかい布団も、ちゃんと用意されていた。暮らすに困らない家という場もあった。
しかし、そこに「人のもつ根源的なあたたかさ」や「安心感」を感じられずに居たのだと思う。これは、理屈ではない。身体と心、全部で感じ取るものだと思う。
二男が、昨日、誕生日を迎えた。
「ケーキも、誕生日の飾りも、プレゼントも無くてもいいよ。旅行にいったから!」という、何とも控えめな発言をする彼。
そういう発言に私は弱い。
夫が庭の草刈りに出る時に、二男もさり気なく外に追い出し、長男と末娘と一緒に、「今だ!!!」と用意していた部屋の飾りをする。
時々、室内の様子を見に来ようとする二男を長男がうまく阻止する。末娘は、「秘密で飾り付けしているから!」と言い出しかねないので、適任ではない。
二男の好きな恐竜のバルーンを天井から吊るし、それをメインに飾り付けをする。誕生日の飾り付けは、基本、使い回しだけれど、時々、可愛いものを見つけたら買い足すようにしている。
二男の誕生日の1週間程前。長男が、「二男の誕生日プレゼント、何にしよう?」と言う。
特に兄妹間でプレゼントをし合うことを習慣化していないし、勿論、義務でもない。
「どんな風にお祝いしたいか、あるいは、そうではないか」は、本人たちにまかせている。別に物をプレゼントすることが、お祝いの気持ちの現れではないし、どちらでもいいと思っている。表現の仕方は、いろいろあるのだから。
子どもたちは、それぞれ、自分たちのお小遣いの範囲だったり、その時々、自分のできることを考えているようである。
「二男は、レゴが好きだから、レゴにしようと思ってるんだけど・・・」と長男。近所のショッピングセンターで下見をし、品番を控えてきた長男から、ネットで同じものが安く買えないだろうか?と相談を受けた。
私は早速、長男と、二男がお風呂に入っている隙にネット検索し、お手頃価格の同じものを見つけ、急いでカートに入れた。定価3000円以上のものが、2000円ちょっとで購入できてありがたいが、「物の適正定価とは何か?」といつも考えてしまう。しかし、この1000円の差は大きい。長男のお財布にも優しい。
普段は、「弟なんて、ウルサイだけ。」「妹なんて面倒臭い。」という長男。
しかし、ふと口にする発言は、やはり兄妹が好きなのだな、と思わせる。
二男の居ないタイミングを見つけて、届いたレゴをラッピングし、自分のベットの下に隠す。「どのタイミングで渡せばいいかな?旅行から帰って来てからがいいか。」と考えたりしている。
そんな風に準備しているにも関わらず、二男には、「お前の誕生日には、プレゼントなどない!」とわざと言ったりする。ツンデレ。
末娘は、自分のできることをするので、プレゼントは手書きのカード。
字は、「ま」と「う」しか書けないので、どんな時にも、「うまうま」と書かれている。すべてをそれで表現するので、たいしたものだと親バカな私は感心する。
二男が部屋に入ってくる時に驚かせたいと、長男と末娘が協力して、リビングの引き戸に仕掛けを作り、ドアを開けると上から風船が落ちるようにしていた。他のドアから入ってきたらアウトだ。
さり気なく二男をドアに誘導し、引き戸を開けると上から風船が降ってきた。二男は「何が起きたの?」という顔をしていたが、部屋の飾りを見回し、事態を把握した。
「わぁ!!!やった~!!!」
嬉しそうに跳ねる二男。それを嬉しそうに眺める長男と末娘。
〈喜んでもらえて嬉しい〉
誰かを、好きな人を喜ばせたいという感情は、とても素敵だと思う。
自分の無理ない範囲で、過度にならず、自然な形であったなら、お互いの喜びである気がする。
二男は、ケーキを飾り付けるからと張り切ってお風呂を済ませ、自分で好きな様にケーキをデコレーションする。末娘が横から「お手伝いはないのか」と身を乗り出す。二男は、上手い具合に末娘のお手伝いを探しつつ、デコレーションを進める。
その時だ。
末娘が大きなくしゃみをひとつ。腕で押さえたが、その脇から飛沫が二男に飛んだ。ケーキにも飛んだ。
二男がちょっと怒って「もう!!!」と言うと、末娘は、若干の時差の後、泣いた。怒られたことがショックだということもあったかもしれないが、「大事なケーキをくしゃみをかけてしまった」ことがショックだったようだ。しかし、私も夫も、なんとなく微笑ましく思い、泣き顔の写真を撮ってしまった。ごめんよ、末娘。
ケーキ作りは二男にまかせ、私と長男は200個以上の餃子を包む。余ったら冷凍しておくので、悩んだ時の夕飯にもなる。具は鶏胸肉のミンチとキャベツとニンニク、生姜に木綿豆腐。お肉は少なめでも、ふわふわして満足できるので、私はこの配合が好きだ。
二男は餃子が好きだ。「毎日、餃子でもいい!」というので、何日食べ続けられるか試したことがあった。長男が先に飽きた。4日目くらいには、二男も「今日は餃子じゃなくてもいいかな・・・」と言った。
人は〈毎日でも食べられる好きなもの〉をどれくらい続けて食べられるものだろうか。また何かの機会に試してみたい。ちなみに、長男は、「寿司なら毎日でも食べられる。」というか、家計への負担が怖いので、試したくない。
120個以上の餃子が、皆のお腹に納まり、「もう、お腹いっぱい!」と子どもたちが口々に言うので、「ケーキは明日にしようか?」というと、「ケーキは別腹!」と、またまた口を揃えて言うのだった。
二男が、ケーキに飾られた蝋燭を吹き消す前にと、長男がトランペットで「ハッピーバースディ」を演奏してくれた。大きなデコレーションケーキは、おかわりする子どもたちの別腹にすっかり納まり3ピースを残すのみとなり、食事を終えた。
二男がトイレに立ったその瞬間に、長男は用意していたプレゼントを素早く二男の席に置いた。
トイレから戻った二男は、「え?何これ?」と予想してなかったプレゼントに驚きつつ、包みを開くと、わぁ!と声を上げた。「レゴだ!みんなありがとう!」というので、「それ、長男からのプレゼントだよ。」と伝えると、二男は飛びかかる勢いで長男に抱きついた。ついでにほっぺにチューしようとして全力で拒否されたいた。
「お互いにヒゲジョリジョリになったときには、ほっぺにチューとかされたくないし、したくないだろうから、今のうちにしたら?」という、私の申し出は却下された。
二男は「今日はもう遅いから、明日、早起きしてレゴ組み立てるよ!」と、開けないままの箱を嬉しそうに前から横から、後ろから、まんべんなく眺めていた。
長男が、二男に、「なんだかんだいって、二男がいてくれて良かったよ。」
と誕生日の言葉を贈っていた。ツンデレ。
その言葉を聴けることは、私にとっても、夫にとっても喜びである。
子どもたちが産まれた、誕生日という日に大きなプレゼントを受け取ったのは、私や夫、そして、周囲の人々なのだと思う。
私が、子どもの頃には感じることができなかった「にんげんていいな」。
それを今、たくさん感じさせてもらっている日々は、とても贅沢だと思う。
私たちのもとに産まれて来てくれてありがとう。
面白い漫画みたいな毎日をありがとう。
お誕生日おめでとう。
あなたの毎日が、たくさんの「楽しい」で彩られていきますように。