漫画みたいな毎日。「抱っこさせてもらってもいいですか?」
お他所の赤ちゃん、お子さんを抱っこする機会があるとき、その子どもたちのお母さんやお父さんに何と声をかけるだろう。
私は、基本的には、お他所の子を抱っこしない。
保育士として仕事をしていた時、姉の子どもたちは例外。
別に子どもが嫌いということではないが、別段に子どもが好き!というわけでもない。元保育士として、その発言どうなの?と思われるかもしれないが、ある意味で、「子どもが好きなんです!」という言葉を信用していない。
〈子どもを一括りにしないこと〉
これは、私の中で大事にしていることだから。
〈子ども〉と言っても、本当にそれぞれだ。個々の存在。だから、〈子どもが好き〉なのではなく、〈そのひと、個人が好き〉と感じるのだと認識している。
相性もあるし、その子ども一人ひとりに性質がある。それを一括りにするのはあまりにも安易で失礼なことだと思っている。
話を戻そうと思う。
私がお他所のお子さんを抱っこするときは、状況として、〈手〉が必要だと感じた時。お母さんが困っている、上の子もまだ小さいのに、下の子は抱っこしていないと過ごせない状態。トイレに行きたいのに、子どもを抱っこから降ろせない。そんな時、「ちょっと抱っこしてくれる人がいたらなぁ。」と少なからず、私も思ったこともある。しかし、自分から言い出すには気が引けたりもした。
そのような自分の経験もあって、状況を見て、幼稚園では、ちょっとだけ抱っこさせてもらうこともある。
まず、お母さんに聞く、
「ちょっと抱っこさせてもらってもいいかな?」
そして、抱っこさせてもらう赤ちゃんと目を合わせ、
「ちょっとだけ、抱っこさせてもらってもいいかな?」と尋ねる。
言葉としての返事は返ってこないことが多いけれど、これは、私なりの礼儀であり、彼らに対する敬意だ。
子どもたちは、大人よりも明らかに小さい存在だ。しかし、小さいだけでって、理解していないわけではない。自分が相手からどのような扱いを受けているかを感じ、理解している存在だと私は思っている。
ここだけの話、お母さんに許可を取るのは、名目上であって、本当に許可を取るべきは、抱っこさせてもらう子どもに対してだと思っている。
子どもはお母さんの所有物ではない。しかし、子どもを保護し、養育している人なので、念の為、許可を得る。
知らない人に抱っこされるのは、ストレスだと思う。抱っことは、相手に、自分の身体、命を預けることだから。
我が家の子どもたちは、私や夫以外に抱っこされることは殆どなかった。
長男は、2歳まで殆ど私と夫の間で育っていたので、親戚に時々抱っこされることはあったが、他の人に抱っこされる機会が殆どなかった。幼稚園に行く頃には、自分で歩き回る年齢だったので、他の方に抱っこされる必要がなかったのだと思う。
二男は、人見知りせず、幼稚園でも機嫌よくニコニコしている赤ちゃんだった。長男と遊んでいる間、ベビーベッドに寝ていると、目を覚ました後は、いつの間にか誰かに抱っこされて移動し、行方不明になっていた。何処にいるの?と探し回ったことは、一度や二度ではない。今思うと、それも彼の「移動手段」としての〈技〉だったのかもしれないと密かに思っている。
末娘などは、私の抱っこから殆ど降りることなく過ごしていた。三兄妹の中で、最も誰にも抱っこされない子だった。「抱っこしてもいい?」と聞かれても、明らかに嫌そうにする赤ちゃんだった。私は、「人見知りするタイプだから、ごめんなさい。」と彼女の様子を見ては断った。怪訝そうにされることもあったけれど、彼女の意志を守ることが、私の役割だから。
彼女は、今でも人との距離を守っている節がある。でも、それも自分の身を守るには大事な距離感だと思う。
そのようなことを感じながら子どもたちと接していると、時々聞く言葉に、ちょっと苛立ちを感じることがある。
「抱っこしてあげるから!」
いやいや、抱っこさせてもらってるの、アナタの方ですから!
脳内のヤンキーが発動しそうになる。
上から過ぎるだろ!そもそも、赤ちゃんはアナタに抱っこされたいと思ってないとか、疑問に思わないわけ?
子どもたちには、どんなに小さな赤ちゃん、産まれたばかりの赤ちゃんにも、強い意志がある。
〈自分はどうしたいか〉
彼らはそれをしっかり持っている。
〈赤ちゃんだから、わからない〉などどいうことは、決して無いと思っている。
だから、最大限、耳を傾ける。最大限、想像する。
「あなたは、どうしたいの?」
産まれたときから、我が家の子どもたちに、何度この言葉を掛けただろう。
どうしても、見知らぬ人に抱っこされなくてはならない子どもの立場になった時には、こんな気持ちで尋ねる。
〈本当は抱っこなんてされたくないよね、知らないオバサンに。ごめんね。でも、お母さんがちょっと大変そうだし、ちょっとお手伝いさせてね・・・。〉
許可を得て抱っこさせてもらい、赤ちゃんたちとの短い交流を持てたことに感謝する。「見知らぬオバサンに身体を預けてくれてありがとう。身体を預けることは、命を預けることだもんね、ありがとうね。」と、赤ちゃんの目をみて、私なりのテレパシーを精一杯送る。一方的だったら申し訳ない。
赤ちゃんたちは、あらゆることを受け入れてくれる大きな器をもっている。大人は、子どもたちに甘えているのだと思うことが多々ある。大きな器の揺り籠に、私たち大人は、揺られているのだ。
だからこそ、彼らの意志を確認する。「抱っこさせてもらってもいいですか?」と。
私にとって、信頼関係の出来ていない、お他所の子どもたちを抱っこさせてもらうことは、決して当たり前ではないのだ。
抱っこさせてくれてありがとう!