学校に行かないという選択。「たったひとりの卒業証書授与式。前編。」
長男が、小学校を卒業した。
卒業式には行かないという長男に、担任の先生は、「皆さんが帰ってから、卒業証書を受け取りにきませんか」と声をかけてくれていたのだ。
その経緯は、こちらに書かせていただいた。
たったひとりの卒業式。
とにかく偉そうな長男は、「俺様のためにっていうなら行くかな。」と、言ってはいたが、そこまで卒業式に意味を見出すことはないようだった。
「家族、皆さんでどうぞ。」と言っていただいていたので、二男も末娘もスーツやワンピースに身を包み、なんとなくいつもと違う気持ちになっていたようだった。
時間より少し早く到着すると、担任のH先生が出迎えてくれ、長男の胸に赤い薔薇と「卒業おめでとう」と書かれたコサージュを手渡してくださり、自分でスーツの胸元にコサージュを着ける長男。
先生に案内していただき、体育館に向かう。
体育館の中は、最低限の片付けはされたようではあったが午前の式典のままになっていた。
そして、なんと、体育館の中には、全職員の方が並んで出迎えてくださった。そのようなことは全く予想していなかったので、私も夫も、とても驚いた。
「入場します。」と担任の先生が声をかけてくださると、入場の為の音楽がかかる予定だったようだが、音楽がかからず、急遽、ピアノが得意な先生が、ピアノを弾いてくださり、生演奏での入場となった。贅沢なことである。
長男は、自分の座る椅子まで、何を思ったか、物凄い勢いで走っていった。きっと、照れくさかったのかと思うが、本人がどういう想いだったのかは、わからない。
担任の先生が、椅子に座った長男に、卒業証書の受け取り方を簡単に説明してくださったようだった。
「卒業証書授与」の声と共に、タキシードに身を包んだ校長先生が、壇上に上がった。
長男の背中しか見えなかったので、どのような表情で証書を受け取ったのか、わからない。「学校に思い出も思い入れもない。」と言い切った彼が、何を感じているのだろうか。
証書を受け取った長男は、壇上から、数段の階段を飛び降りた・・・・。
・・・おいおいおいお~い!!!!と思う私と夫。
続いて、校長先生は、祝辞として、彼だけにメッセージを読み上げてくださった。
彼のこれからの成長を楽しみにしていること、家族がいつでも彼をあたりまえのように見守り、支えてくれていること、しかし口には出さずとも、その裏にはたくさんの苦労があり、その中で自分が育っていることを忘れないでください、と。
小学校に行かないという選択をしていた長男。
その彼の為に、全職員で卒業を祝ってくださったことに、あたたかいものが込み上げて来た。
「たったひとりのために」何かをするということは、学校という組織に於いて、決して簡単なことではないと思うのだ。私もかつて、公的な組織にいたことがあるため、それは容易に想像できる。
「たったひとりにするというのは、公平ではないのではないか」
「これからも、このようなケースには、そのように対応していくのか」
「他の保護者からクレームは来ないか」
きっと、このような運びになるまでに、話し合いの中でこのような意見もあったのではないだろうかと思うのだ。意見として出ないとしても、そのように考える方がいてもおかしくはない。
担任の先生に、「このように式をするのは、大変だったのではないですか?」と式の後に尋ねると、「いや、すぐ決まりましたよ。」とおっしゃっていたが、事実はわからない。
ただただ、たったひとりのために、卒業式をしていただいてありがたいと思った。
長男が、この式をどう感じたかということは、わからないけれど、私や夫は、多くの職員の方々が温かく「長男を見守ってくれていたのだ」ということを実感していた。
直接的に、長男と関わりがなかった職員の方だとしても、その方が、担任の先生をサポートしていたり、フォローしていたこともあっただろう。そう考えると、巡り巡って、すべての方々が、長男の為に時間や労力を使ってくださっていたのだということを感じたのだ。
そう思ったら、胸がいっぱいになり、涙と鼻水が止まらなくなった。
泣くと思っていなかったので、手元にハンカチもティッシュも、すべて夫に預けたバッグの中だった。涙も鼻水も止まらず、それらを取りにいくタイミングが掴めないでいた。とりあえず、マスクが全部を受け止めてくれていた。マスクには、こんな役割もあったのかと改めてマスクの存在にも感謝したのだった。
式が終わり、退場のアナウンスでまた走りだそうとする長男に、「ゆっくりお願いします」と、にこやかに担任のH先生が声をかけてくださった。すると、長男は、今度は超スローモーションで歩き始め、二男もそれに続いて退場しはじめた。それを見て先生方も「動きがリンクしている!」と笑っていた。笑ってくださってありがとうございます。
「お母さんとお父さんもうやったら面白かったのに!」と帰宅してから長男に言われたが、胸がいっぱいでそんなことを考える余裕はなかった。
退場時に、職員の方、ひとりひとりにお礼を言いたい気持ちはあったが、またそこで時間を使わせてしまうことになるので、「お時間割いていただいてありがとうございました。」と全員に向けてご挨拶し、体育館を後にした。
校長先生と担任の先生が玄関まで送ってくださった。
校長先生は、生き物のことに詳しく、長男の話にも耳を傾けてくださり、顔を合わせるといつもフラットな様子で声をかけてくださった。長男は、そんな校長先生に親しみを感じているようで、帰り際に、「校長先生、転勤にならなくて良かったよ!4月になっても、また来るから!」と抱きつかんばかりの様子であった。なんにしても、偉そうだ。しかし、校長先生は、「そんな風に思ってもらってたなんて、なんか照れるなぁ~!」と笑っていた。
長男は、沖縄にいったら、校長先生と担任の先生にお土産を買ってきて届けるつもりらしい。
いっそのこと、中学生になったら、中学の勉強を小学校の校長室で校長先生に教わってはどうだろう?小学校を卒業してから小学校に通うというのも、悪くないのではないだろうか。校長先生のお仕事量は把握していないが、勝手な想像では、小学校の教職員の中で、一番時間があるのは、実は校長先生なのでは?・・・いや、お忙しいとは思うけれど、その組み合わせは悪くないのではないか?と密かに思う母であった。
私は、校長先生に、「学校に行かない選択をしている彼に、学校をいつでも開かれた場としていてくださったことに感謝しています。」とお伝えした。
長男は、学校に行かないという選択をしていた。
それにも関わらず、学校という場を、「いつでも開かれた場」としていてくださったこと。
それはあたりまえではなく、ありがたいことだと思うのだ。
本人が行きたくなれば、いつでも行ける学校という場所。
そのような前提がある上での「行かない」という選択は、決してあたりまえなものではない。
そう感じた時間だった。
後編につづく。