「織り込み済み」には、ならないこと。
末娘が、せっせとクマのぬいぐるみを抱っこし、お世話しています。
「赤ちゃんがいるんだよ〜。」というので、
「そうなんだねぇ。いいねぇ。あなたも赤ちゃんだったんだよ〜。」と応えると、
「あ〜・・・大変だったでしょ〜。」
なんだか大人っぽいやりとりで、思わず笑ってしまったけど、まぁ、子どもたちが育つためのサポートは、もちろん、大変なこともあるのだけど、面白くもあるのです。
最近、〈織り込み済み〉という言い回しをよく耳にする気がします。調べてみたところ、本来は、株価が好材料や悪材料の影響をすでに反映した状態のことなのだと初めて知りました。
子育てや、人間関係の大変さを、〈織り込み済み〉と表現することがあるようですが、その表現になんとなく、違和感を覚え、ずーっと自分の中で引っかかっていました。
なぜ、こんなにも、ひっかかるのだろう?
暫くの間、心のどこかに置いたままにしてあったのですが、先の末娘とのやりとりで、ふと、その言葉を思い出したのです。
人が育つ過程に於いては、何事も、〈織り込み済み〉にする事はできないし、織り込んだりしない方がいいよね、と。
予測不可能だからこそ、面白い。
大変過ぎて、笑っちゃうことも、泣きたくなることも、
泣きたいくらいに、しあわせな気持ちになることも、
あらかじめ、織り込んだり出来ない。
日々、目の前に起きる様々な出来事に、自分でも予想していなかった反応をしたりする。
その自分自身の反応や対応に、自己嫌悪に陥ったり、「自分、グッジョブ!」とか思ったりしながら、知らないうちにバージョンアップしてたりすることもあるわけです。
前に起きた時には、上手く対応出来なかったことが、次には、難なく対応できたりする。
また、逆もあり、前回、クリアしたのだから、今回もいける!と思ったら、課題の方が、上回っているとか・・・。
・・・頑張れ、自分。
私は、そんな様々な事柄を味わった上で、「大変な事もあったけどさ、なんだか面白かったよね。」と、生きて行きたいのだと、末娘とのやりとりをしながら、感じたのでした。
〈織り込み済み〉という、自分の狭い予測の範囲に収まったら、なんだか、きっと物足りなく思うのかもしれないな。
私たちの未来は、
子どもたちの未来は、
いつだって、予測不可能。
だから、面白い。