漫画みたいな毎日。「〈朝の果物は金〉と〈可愛い〉の関係性。」
我が家では、夕食後に季節の果物を食べることが多い。
毎年、青森から取り寄せている林檎があるが、昨年の猛暑の影響で思うような収穫量がなかったらしい。紅玉を干してパウンドケーキに入れたり、お節のりんご寒天を紅玉で作ると綺麗な紅が重箱の中で、とてもよい雰囲気になるのだが、今年は紅玉も殆ど収穫できなかったとのこと。
皮ごと食べられるその林檎を、長年林檎のアレルギーで生の林檎を食べられなかったという知人が10年以上ぶりに口にすることができたと驚いていたことがった。今年は、おすそ分けできるといいなぁ。どうか、作柄が順調になりますように。農家の方の日々のお仕事が実りますように。
林檎が不作の傾向で、昨年末から我が家の食卓に上った果物で多かったのは、柿だろうか。
北海道では柿が栽培されていないが、(時々庭木で柿をみることはある。)本州生まれの私は、父の育った福島から送られてくる段ボール箱いっぱいの柿を食べて育った。かためでも、柔らかめでも、柿が大好きだった。干し柿用の渋柿だと知らず、一口食べて、その渋さに舌を掻きむしったことを柿の季節になるたびに思い出す。
フォローさせていただいているnoterさん柿農家のKakiemonさんの柿栽培のご苦労を拝読し、柿ってこんな風に育てられているんだと細やかなお仕事に感心しつつ、プロの技とアイコン写真の柿を「美味しそう」と眺めている。
家族皆、柿が大好き。末娘は、家で一番の果物好きかもしれない。彼女は、柔らかめの柿がお好みのよう。
ある夜、お節料理で作った〈豚肉の醤油煮〉のスープで作ったラーメンを夕食に食べ、末娘は大好きな南瓜きんとん、薩摩芋きんとんの入った小鉢を抱え、頬張って食べていた。
「あ~甘いって幸せ~。」
その発言が女子っぽくて笑ってしまう。
そして、本当に幸せそうな笑みを浮かべているので、私もしあわせな気持ちになって眺める。みるみるうちに、小鉢は空になり、末娘は私に視線を向け、こう言った。
「デザートはないの?」
「へ?」
「今日は、これがデザートなの?果物は食べない方がいいの?」
「うん、そうだねぇ。きんとん、甘いしね。果物は、明日の朝が良いかもね。朝の果物は金、って言うしね。」
「それってどういう意味?」
「果物は、朝に食べるのが一番身体に良いってこと。朝に果物を食べると可愛くなるよ、ってことだと思うよ。」末娘向けにやや脚色が入っただろうか。
すると、真顔で末娘がこう答えた。
「え?もう可愛いけど。」
私と夫は顔を見合わせて笑ってしまった。
末娘にとっては、「可愛い」ということは当たり前なのだろう。
「おはよう」と同じように「可愛いね。」と毎日、何度でも、言ってしまう母の効果だろうか。
私は、毎日、心置きなく安心して、末娘に対して〈可愛いね〉と言うことができる。
〈言うことができる〉というのは、末娘の〈可愛い〉とは、「自分のために可愛い」であって、「誰かの為に可愛くあろう」とか、「他の人よりも可愛くあろう」とか、「可愛いと褒められたい、認められたい」といった類のものではないと感じられるからなのだろう。彼女の〈可愛い〉は自分の存在価値とは直結していない。彼女の中での、〈可愛い〉とは自分にとって特別でもなんでもないことのようだ。
「朝、果物を食べるともっと可愛くなるってことだと思うよ。」
「あ、なるほどね。わかった。」
まだまだ可愛くなろうという向上心のある末娘なのだった。