「AI(シビュラ)か、法か」PSYCHO-PASS PROVIDENCE 感想
みました。
ネタバレ有りなのでそれでも良ければ。
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粗筋(思い出すために書いた側面が大いにあるので、飛ばしていただいて結構です)
一期はシビュラシステムによる極限的な画一社会において生きること、そして法への態度が、二期では集合的サイコパスについて、三期ではシビュラシステムをデバッグする存在と殺意なき殺人についてが語られました。
だいぶざっくりですが。
そして今回、一期で朱が見出した法への態度が再度クローズアップされました。
映画冒頭の会議で、シビュラシステムの存在によってもはや法は不要であるという主張が展開され、その流れは止められない状況に陥っていることが描かれます。
印象的だったのはその後の慎導篤志と朱との会話です。
両者共に法の廃止に反対しているのですが、慎導はその理由として「日本が復興する諸外国に置いていかれないこと」と述べます。
日本以外が紛争によって荒廃している世界において、日本が劣勢になるという状況を想定しているのはかなり珍しいと思われますが、それだけに特異な視点を持つ人物だということがわかります。
やがてなんやかんやあり、ピースブレイカーなる組織がストロンスカヤ文書を狙っていることがわかり、雑賀先生が物語から退場します。
悲しい。
なんやかんやでどうやらストロンスカヤ文書は、紛争を計算するシミュレータのようだということがわかります。
それを使えば、紛争を防ぐことも、そして起こすことも可能になると。
ここら辺は伊藤計劃の「虐殺器官」っぽさがありましたね。
終盤で、ピースブレイカーの首領である大塚声のオジサンが北方に国家を樹立する宣言をし、シビュラシステムはそれを承認します。
どうやらその裏にはピースブレイカーの信奉するAIが自身の発展に寄与するからという意図があったようですが。
朱はオジサンと相対し、AIの統治を否定し、人による法の統治について説きます。
これについては一期から通して朱が貫いてきた信念だったので、まあそうだよな、という感じでした。
しかし差し迫った暴力に対しては、暴力で対応するしかなかったという皮肉な結果に終わります。
事件後、朱は慎導のポストに就くことになり、その任命式が執り行われます。
そこで朱がとった行動は、公衆の面前で局長を殺害することでした。
しかし朱のサイコパスはクリアなままであり、それが報道されるとシビュラで捌くことのできない存在に対する法の必要性が再度取り沙汰され、法の廃止は取り下げられることになりました。
クロスカットで狡噛が手紙を読むシーンは、一期の終盤を思い起こさせますね。
そこで本編が終わり、アニメ三期へと繋がっていきます。
朱の選択
朱は、局長を殺害したにもかかわらずサイコパスをクリアに保つという状況を公衆に見せることで、法の重要性を訴えました。
この手段は朱の立ち位置(強靭なサイコパスとシビュラシステムの正体を知っていること)あっての、朱曰く「自分なりのやり方」でした。
法の廃止が殆ど決定的になった状況において、朱が取り得る中では有効的なカードだとは思いました。
実際法の廃止は見送られたのですから、朱の目論見は叶ったと言えます。
しかし、サイコパスというフィクションという観点でメタ的に見た時、僕が少し残念な思いを抱いたのも事実です。
朱は徹頭徹尾、法の遵守という態度で世界に相対しました。
法で裁くことのできない槙島に対しても、シビュラシステムの正体に対しても、カムイに対しても。
しかし彼女が劇中最後にとった行動は法を破るものであり、対外的にはテロル的な側面があることは否めません。
確かに革命の名の下に肯定された暴力が、結果的には時の政権を打倒した例は歴史的にも存在します。
しかし彼女はこれまでずっと法の外にある暴力を否定し、法の中で世界を守ることを徹底してきました。
あの行為は、それまでの彼女自身の否定といっても過言ではないと思います。
ジーン・シャープ的な非暴力闘争において法を守るという可能性はなかったのか?
劇中でそういった場は冒頭での消化試合じみた会議しか描かれなかったので、余計にそう思ってしまいます。
法が廃止されれば法務省は恐らく解体され、以降は法の復興により大きな力が必要になるだろうということを考えるとやはり選択の余地はなかったということは百も承知ですが......。
僕自身、シビュラシステムの画一的な世界は嫌いです。
その意味では劇中において槙島的な考えに近く、朱の行動はある意味では歓迎するべきことかもしれません。
しかし、サイコパスという物語の朱という人物をメタ的に見た時、やはり彼女の法への姿勢は守られて欲しかったというのが僕の考えです。
時系列的に後の作品になるサイコパス3において、ここまでして朱が守った法に殆ど触れられないのも歯痒さを感じざるを得ません。
劇中では法を残す大義名分として移民への適用という話がありましたが、サイコパス3ではそういった話は出なかったような.....。
AI(シビュラ)か、法か?
物語終盤、砺波(大塚声のオジサン)と朱の両者で、人の振る舞いを決定付けるものはAIか、法かという議論がありました。
それについて考えていきたいと思います。
法について
まず、法とは市民にとって何でしょうか。
人の行動を規定するものといえばそれまでですが、もう少し多面的にみてみたいと思います。
サイコパスらしくいくつか引用してみます。
また、政治学者であるハンナ・アーレントは権力について述べます。
(彼女は広い意味で権力と言いましたが、ここでは法と捉えます)
ここで述べられている出現の空間、すなわち公的領域とは、非常に簡単に言えば人同士が言論と双方向的な活動を行う場のことです。
ここで詳しいことは述べませんが、アーレントは人間を人間たらしめる条件として最も重要なものとしてこの公的領域における活動を重要視しています。
誰かから認識されなければ、自分のアイデンティティすらも規定できない、というのは感覚的にわかると思います。
そして権力(法)は、その人間を人間たらしめる領域を存続させるものだと言っています。
以上のことから、法は人を規定するというよりも、人が人らしく生きるための規範(であるべき)と言えるでしょう。
AI(シビュラ)について
次に、シビュラシステムの世界について考えます。
AIとシビュラシステムの原理は異なりますが、ここでは敢えて同じ扱いといたします。
シビュラシステムが提供するものとしては、大きく二つ。
人生におけるレールの提案(というより強制に近いですが)と、犯罪係数(サイコパス)の管理による治安維持です。
どちらも潜在犯以外の人々に快適な日常を提供します。
悩みがあれば方針を示し、色相に合った人間関係や労働、そして恐らく労働以外の時間の過ごし方も提供するでしょう。
彼らは積極的に考える必要がありません。
何をするか、何を話すか、何を思うか、その全てをシビュラに委ねることができる環境に生きているからです。
しかしそれは、幸福と言えるでしょうか?
彼らは感覚的には、幸福と言うかもしれません。
しかしそれは、人間的というよりはより動物的、寧ろ機械的と言えるでしょう。
最大多数の最大幸福という功利主義的な目的を達成するためのシビュラシステムを完成させるための、幸福を感じるためだけに存在する部品。
それがシビュラシステムの世界の人々です。
ハクスリーの「すばらしい新世界」顔負けの世界です。
彼らは本当に幸福なのか?
私はそうではないと考えます。
幾つか理由はありますが、その一つは今作の主題歌である、凛として時雨の「アレキシサイミアスペア」に表れています。
曲名にあるアレキシサイミア(a-lexi-thymia)とは、失感情症という実在する精神傾向です。
lexis(語彙)とthymos(感情や欲望、衝動)を掛け合わせた語であり、厚生労働省のデータベースではこのように記載があります。
シビュラシステムの世界の人々は皆、この精神状態に陥っているのではないかと考えます。
どれだけ切実な衝動や感情を抱いても、彼らはそれを誰かに見せることはできません。
何故なら、彼らは自ら考えるという行為をしない人生を送ってきたからです。
彼らは自らの感情を正確に言語化する能力を持ち合わせていません。
シビュラシステムから提供された言葉の羅列を口から発してみても、満足することはできないでしょう。
何故ならそれは、自分のうちから出た言葉ではなく、与えられた言葉だからです。
彼らは自らの内面を言語化できず、誰かに見せるどころか自分でも理解できないまま、表出されない感情だけが無限に膨れ上がっていくことになります。
やがてそのストレスは犯罪係数の上昇を招くこともあるかもしれません。
アリストテレスは「二コマコス倫理学」において、人の幸福は人の持つ卓越性を発揮する生であり、そしてその卓越性の最たるものが観想的(簡単に言えば、知恵を発揮する)活動だと言いました。
実際(特にサイコパスという作品を見るような方ならば)、ベルトコンベア的な単純作業よりも、自分の専門性や知恵を役立てることができるような仕事をしている時の方がよっぽど幸福でしょうが、シビュラに管理された彼らにとって、その卓越性はもはや伝統工芸に近いものと化していると考えられます。
一方で、シビュラはあの世界において法としての役割をも果たしています。
犯罪係数の管理による治安維持の有意性は、朱も認めています。
しかし、先ほど引用したアリストテレスの定義する法の意図である、市民のすぐれた行為の習慣付けという意味ではその役割を十分に果たすことができているかは疑問です。
具体的な規範が示されていないからです。
市民は自身がシビュラ的かどうかということを自身の犯罪係数という数字でしか判断できず、しかもその内訳はブラックボックスであり、一度潜在犯になれば隔離施設送りです。
したがって、彼らは日々を薄氷の上を歩くような心持ちで生きているでしょう。
全体主義社会における監視の一つの極限とも言えます。
アーレントは、「法の精神」で有名なモンテスキューの暴政/専制(彼はこの二つを同じものと考えていました)に対する考えを発展させて以下のように語ります。
先ほどのアーレントの引用の通り、権力は人々の"パブリックな"活動の場である公的領域を存続させるものです。
シビュラの専制はそれを破壊するものであり、人々の卓越性である観想やそれに伴う活動を奪います。
それは犯罪係数上昇による執行という外的手段と、快適な日常の中で骨抜きにするという内的手段の両面から実施されます。
AI(シビュラ)か、法か
以上の二つを踏まえて結論を出します。
シビュラは一つの存在であり、既存の政治体制に当て嵌めるならば専制政治と言えるでしょう。
その独裁的な支配の中で、人々は真綿で首を絞められるような日々を送り、その精神は日々逼塞していきます。
人が人らしく生きるためには専制政治のもとではなく、優れた法に基づいた世界が必要です。
しかしそれはあくまで必須条件であり、十分条件ではありません。
人は社会に属しているだけではその卓越性を十分に発揮できるわけではないからです。
法の基で、自ら考え、何が人として善いことかを常に考え続けること、つまり観想的活動を行うことによって、そして公的領域においてそれを言論として人々と議論し合うことによって、人間的な幸福を得られるということです。
しかし昨今では、ChatGPTに代表されるAIチャットボットや、MidjourneyやStable Diffusionを始めとする生成形AIの無秩序な氾濫により、人々はそれまで持っていた卓越性をAIに委譲し始めています。
合理性の名の下、人の仕事を玉ねぎの皮を剥くように手放していった先に、何が残るのでしょうか。
シビュラシステムの世界は、わずかに玉ねぎの芯が残っただけの状態と言えるかもしれません。
一方の僕たちにはどれだけ、人らしさが残っているでしょうか。
そして、辛うじて保持している人らしさを失わないために、どうすればよいでしょうか。
朱は自らの手を汚し、シビュラから人らしさを守ろうとしました。
僕には(当たり前ですが)朱のように世界から人らしさを守るほどの力はありません。
それでも、せめて自分にできる限りの範囲で、人らしさを問うていきたいと強く思います。