「木次線(きすきせん)の父」が晩年語ったこと
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今回も本書「『砂の器』と木次線」を執筆するにあたり、参考にした貴重な資料の一つをご紹介します。
1960年のインタビュー記事
JRがまだ国鉄(日本国有鉄道)だった時代に発行されていた『トラベルグラフ』という雑誌をご存知でしょうか?国鉄が編集し、鉄道弘報社という会社から出版されていたもので、国鉄のPRを兼ねて全国各地の旅行ガイド的な情報を伝えていました。
今回注目するのは、1960(昭和35)年10月に発行された第84号。ちょうど松本清張が読売新聞夕刊に『砂の器』を連載していた頃のものです。
この号では「宍道湖・木次線特集」として、宍道湖沿岸の松江市などとともに、木次線沿線の島根県内5町(当時の加茂町、大東町、木次町、仁多町、横田町)の見どころを紹介しているのですが、あわせて「木次線/むかしいま」と題して、「木次線の父」と呼ぶにふさわしい、ある人物のインタビュー記事を掲載しています。
その人の名は、絲原武太郎氏(1879年~1966年)。木次線の前身、簸上(ひかみ)鉄道(1916年開業)の創設者で、のちに木次線の全線開通(1937年)にも尽力しました。この時既に80歳を超えていた絲原氏はインタビューで開業以来の歩みを振り返っています。その中から少しだけご紹介します。
黒字経営だった簸上鉄道
まず、絲原氏が最初の質問に答えている部分を引用します。簸上鉄道時代の話です。
木次線と言えば今では「赤字ローカル線」のイメージがすっかり定着していますが、実は簸上鉄道時代は黒字で配当も出していたというのは意外ですね。開業の詳しい経緯は、本書「『砂の器』と木次線」をお読みいただければと思いますが、当時の状況をかいつまんでご説明します。
絲原家はもともと、日本古来の製鉄法である「たたら製鉄」の鉄師の家柄でした。島根県の製鉄業は明治10年代までは全国の生産量の5割以上を占めていましたが、海外から安い洋鉄が輸入されるようになり、一気に衰退します。明治の終わりに絲原家の家督を継いだ13代・武太郎氏は、鉄に代わって木炭の製造と都市部への販売に力を入れようとします。ところが山深いこの地方は当時は道が悪く、陸上の交通手段は馬と人力車、徒歩のみ。物資の運搬には主に川船を使いましたが、甚大な輸送コストがかかりました。
このままでは豊富な森林資源が死蔵され、時代に取り残されてしまう。その危機感から絲原氏らが取り組んだのが、鉄道の建設でした。既に開通していた山陰線の宍道駅と木次駅をつなぐ簸上鉄道の開業で、この地方の荷動きが活発になり、地域に大きな恩恵がもたらされたのです。
奇策スイッチバックで全線開通
鉄道の開通で沿線がどう変わったかのかと問われ、絲原氏は「最大の現象はなんといっても住民が鉄道のありがたみを知った」ことだと述べています。簸上鉄道の恩恵を受けた地域の人々は、さらに大きな夢を抱くようになりました。山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡線」の実現です。具体的には簸上鉄道の終点・木次駅から南に線路を延伸し、広島県の備後落合駅と結ぼうというのです。
詳細は割愛しますが、紆余曲折の末、この構想は1937年に実を結び、宍道から備後落合まで全長81.9キロの国鉄・木次線として全線開通します。山間の急峻な傾斜地に線路を敷設するのは並大抵のことではなく、難工事の連続でした。中でも大きな壁となったのは、島根・広島県境の三井野峠をどのようにして越えるかでした。そこで浮かび上がったのが、鉄道ファンにはおなじみ、あの全国でも珍しい三段式スイッチバックだったのです。
木次線、奥出雲への愛着と将来展望
本書「『砂の器』と木次線」でも少しふれていますが、13代・絲原武太郎氏は実は奥出雲の出身ではありません。出雲地方の平野部の地主の家に生まれ、東京の高等商業学校(現・一橋大学)在学中に養子縁組の話が持ち上がり、絲原家の養子になりました。そんな絲原氏ですが、奥出雲の住み心地は「実によろしい!健康によろしい。その証拠に、私はこんなに長生きしています」と語り、さらにこう続けています。
最後に木次線沿線の観光開発について問われ、絲原氏はこう答えています。
何しろ今とは時代背景が全く異なる60年以上前の発言ですので、現在の木次線や地域の問題を考える上で、直接参考にはならないかもしれません。しかしながら「気長な投資」「永く住んでみると、じつに結構」という言葉からは、とかく目先の損得にとらわれて近視眼的になりがちな私たち現代人への戒めのようなものが含まれているようにも思えます。
今回の記事ではあまり言及できませんでしたが、絲原氏や木次線の歩みに関する詳細は、本書「『砂の器』と木次線」をお読みください。