朝井リョウ『生殖記』感想:簡単にわかられてたまるかって話を、あえてわかったかのように語る勇気
閉じた内面で起きる大事件を、ミクロかつマクロな視点から追体験できる面白小説
高校生くらいから大学生まで追い続けた、そして社会人になりちょっとメンタル的な問題で遠ざけていた朝井リョウの新刊。新宿紀伊國屋のでかいモニターで真っ白なPVが流れているのを見つけた時から、この本は読むしかないと思っていた。
本を開いたら、おち⭐︎んちん(正確には「生殖器在住の生殖本能」)が喋ってた。だいぶびっくりしたけど、読めば読むほど過去に読んだ朝井リョウ作品のことが思い出されて、結果的にはしっくりくる読書体験になった。
これはちゃんとした感想が言いにくい本だ。特に社会のマジョリティに属する要素が多いわたしの口から、共感ベースで何かを言うことはちょっと憚られる感じもする。というか、言っちゃうと「わかってない」「無作法な」感じが出てしまう。どれだけまっすぐ伝わったものがあっても、簡単にわかられてたまるかって話をわかったようには話せない。
だからこそ、そういう感想をネットのテキストの海に放り投げておく必要もある、と思う。
だってこの本を読む多くの人はわたしと同じく社会のマジョリティで、きっと同じように「突きつけられる側」の当惑を感じているだろうから。
令和版「吾輩は猫である」
この小説はおち⭐︎んちんの持ち主であるゲイのアラサー男性・達家尚成の生活を、彼の性器が文字通り内外からお届けするレポートである。
ゲイであることを隠して生活するアラサー男性の尚成は、共同体の「拡大・発展・成長」に寄与しない自分の存在を締め出す社会に絶望しながら、それでも何とか生き延びるために、家電メーカーの総務部社員として働き、蓄財に励んでいる。
彼のモットーでありサバイバル術でもあるのが、「手は添えて、だけど力は込めず」だ。
「静かな退職」を思わせるこのフレーズは、冒頭のみならず物語の中に繰り返し登場する。これが単なる省エネ志向にとどまらない、社会への怨嗟と深い悲しみを秘めた言葉であることが、物語が進むにつれて徐々に明らかになっていく。
それでも、どんなに心を二枚貝みたいにピッタリと閉じていたしても、自分の外側の世界と完全に無縁ではいられない。尚成の心は、遮断しているはずの周囲の人間の影響を否応なしに受けながら、少しずつ(いや実際は終盤で急激に!)変化していく。語り手のおち⭐︎んちんはその様子を、尚成の前に「担当」していたさまざまな生き物たちを引き合いに出しながら、あるときは呆れ気味に、またあるときはヤキモキしながら語り、人間の営みの不思議さを面白がっている。
これは夏目漱石「吾輩は猫である」の令和版とも言えるかもしれない。人間社会の外側の目で、でもすごく近くから、現代の人間の営みの「滑稽さ」を指摘するような作品であるという点では、間違いなく相似形になっている。「吾輩は猫である」も楽しく読んだ記憶があり、思わぬ形で現代に再来してくれて嬉しい。
「人生がずっとサバイバル段階」って感覚への共鳴
尚成の心の閉じっぷりと人生の諦めっぷりには辟易したが、それでも彼の(性器の)言葉には共感できる部分があった。それは尚成と理由こそ違うものの、わたしも人生のサバイブの段階がそれなりに長かったからであろう。
小学生から中学生の頃は、いじめや仲間外しに頻繁にあっていたし、
高校生になっても、進学コースの自分のクラスでは浮かないように内心ビクビクして過ごしたし、一方で他クラスのギャルから理由もなく指をさして笑われたりもしていた。
尚成と同じで、サバイブの渦中にいる間は、自分が自然体で過ごせる世界なんてどこにもないのだろうと感じていた。颯との会話をリズムゲームみたいにやり過ごす場面なんかは、わたしもかつてまったく同じことを考えていて、何度も頷きながら読んだ。そうそう、会話ってポップンミュージックみたいなところあって、3色のボタンでだいだいやり過ごせちゃうんだよね。
なぜわたしはこの世界に安住できないのだろう、どうしたら居場所が見つかるのだろうという問いの答えを、わたしは「見た目」に求めた。
見た目が気持ちわるいから馬鹿にされるのだ、下に見られるのだ。どうすればみんなと同じになれるのか、どうすれば「普通に生きていける」状態に辿り着けるのか。
その試行錯誤はむかしむかしに別のブログにまとめたが、わたしが「かわいい」の呪縛から解放されるまでのいろんな葛藤や思索は、共同体とそこにいる自分への信頼を取り戻すための行為だったのだなとこの本を読んで気づいた。
わたしが、尚成のように30過ぎまで共同体への不信感を引きずり続けなくて済んだのは、見た目というのはまだ変えられるし、時代によって評価基準の変わるものだったおかげだろう。
セクシュアリティは環境に合わせて変えられるものではないし、悲しいことにシスジェンダーヘテロセクシュアルが「あらまほしき姿」だと思っている人はまだまだ多いといわざるを得ない。尚成に対する社会の締め出しは、時間とともに簡単に過ぎ去ったり薄れたりするものではない。だから、あくまで「共感できる部分がある」としか言えない。
尚成の傷つきは、誰にも多少は覚えがあるものの、それらと簡単に同じにはできない、切実な人権問題のひとつだ。だからこそ、お話の題材という枠を超えて、現実の当事者の声とも思って受け止めたい。
わたしの周りにも尚成がいるかもしれない。きっとその声を聞かせてもらうことは難しいだろうけれど、聞こえない声に思いを馳せたいとは、今も思っている。
苦しい人の声ほど聞こえない、だけじゃない
「いちばん苦しめられてるのは閉じてる人なんじゃないか、苦しい人の声ほど聞こえないんじゃないか」ってことと、「でも閉じこもって心の中で言ってることは他人には届かないよね」というのは、矛盾しないメッセージなんだなというのも、この小説を読んで意外に思ったところだった。
一方の立場から、上記どちらかのメッセージを発する作品なら、他にも存在するかもしれない。でもその両方を、しかもこれだけ「閉じざるを得なかった人生」を描いた後に、颯爽と(あっ)投げかける作品っていうのはそうそうないのではないかと思う。
しかもこれは及び腰の両論併記とはぜんぜん違うのだ。一見相反するメッセージが有機的に繋がり、結果として尚成を後押しするように、同じ作品に詰めこまれている。さすがというしかない。ずるい。
そして、語り手がさんざん「異性愛個体中心社会」の矛盾や誤謬を突いているから、もう読み手が裏切られるような展開(いわゆる「読者を刺す」ってやつ)は起こらないのだろうと思わせておいて、今までの語りをめちゃくちゃひっくり返す事実が明らかになるという……。叙述だけでも十二分に面白いのに、お話としても楽しませてくれるのは、すごいなー朝井リョウって本当にすごいんだなーと思いました。
颯、イケイケに見えてたけど、殊勝な表情もできるんだな君……。
この会話、尚成の生き方が劇的に変わる、本当にあと一歩のところで終わるんだけども、それでもかけられた言葉がちゃんと尚成に届いて、彼の世界の捉え方を変えていくのが良いなと思う。ずっと人生の選択肢を閉ざしていないで、認知を拡大していくところ。
思えば、尚成がぼんやり颯の話に合わせて相槌を打っていた時も、本人の意識とは裏腹に、颯はまっすぐ尚性の言葉を受け取っていた。だからこそ颯は尚成を飲みに誘ってNPOの話をした。
閉じていても、添えた手に力を込めていなくとも、他者がいる限り、人間は否応なしに因果に巻き込まれていく。変わっていくことになる。
それが希望でなくて一体何だろう。
ラストをどう捉えるか
尚成は最終的に「手の込んだお菓子をたくさん作り、食べた分のカロリーをダイエットで消費する」というルーチンを編み出す。そしてそのルーチンによって、生殖がヘテロセクシャルの人間の手を借りずとも可能になる近未来に向かってできるだけ早く時間を進める、という生き方に「しっくり」を見出した。
それは同期の大輔や樹にしてみれば「なんか、変。/なんか、違和感。/なんか、ザワザワする。」なのだけれども、尚成はもう、彼らが何を言おうともきっと意に介さないだろう。このラストは、一見すると物語冒頭の尚成と同じく、閉じた生き方にも見えるが、それは違う。彼はもう「サバイブ」の次の段階を見つけているのだ。少なくとも最初の尚成よりもずっと、「次」を追い求めてやまない人間という生き物らしく、生きていけるようになったのだ。
たとえそれが「構築」とはまったく別の行為だとしても。
世界と戦えないし共同体に期待できなくても、心の中に「しっくり」くる世界を築くことはできる。
思えばわたしたちの生きる現実だってそうじゃないか。同じ地面を踏んで、同じ社会に生きているけど、人の数だけ見えてる世界のレイヤーがあって、しかも他人に世界がどう見えているのかは窺い知れない。版画の線画と塗りの部分くらい、あるいはミルクレープの層の10枚目と11枚目くらい、座標は重なってるけど見える世界は違う。
意見が違う、考えていることが違う、生きている世界観が違う、それって怖いことだと思っていた。
けど、わたしとはまったく異質な時間を生きている尚成の姿は、わたしにとっても希望である。