些細な事件/奥田亜希子『五つ星をつけてよ』感想
奥田亜希子 『五つ星をつけてよ』 新潮文庫
6つの短編を収録。そのなかで気になったものをいくつか。感想や考えたこと。
キャンディ・イン・ポケット
今日を最後に、私たちはきっと二度と会わない。
「また会おうね」という言葉を投げかけられても、なんとなく、ああこの子とはもう二度と会うことはないんだろうなあと感じることがある。
その子にとって、私は大多数の一人でしかなくて、その子はおんなじ言葉を誰かにたいしても幾度となく繰り返しているはずだ。
愛想がよくて声のよく通る彼女は自然と人に囲まれていた。
私の隣に並んで歩いてくれるときもあったけれど、そのときに向けられた笑顔は、誰にたいしても分け隔てなく向けられる。
私にとっては、その子と過ごす時間はその子と一緒にいるときしか味わえないけれど、その子にとってはどこにでもある時間なのだろうなあとか、ふと考える。
別に悲しくなることはないけれど、その子にとって私は特別な存在にはなれないのだろうなと感じる。
もっと深い関係は求めない。相手はきっと深い関係なんて望んでいないから。だから、私も深くのめり込まないようにしていた。それが関係を続けていくための一番いい選択だと思った。
その子の誕生日には毎年LINEをしていたけど、今年は送らなかった。もういいかなあ、と。その子は私のことを思い出すことなんて、誕生日のLINEを送った、年に1日だけなんだろうなと思った。1日が0日になったところで変わらない。その子にはきっと誕生日を祝ってくれる人がたくさんいる。
別に会いたいだなんて思うこともない。だから会おうだなんてLINEもしない。
未練なんてない。ただ、人気者にとってのかけがえのない存在になることって難しい。
会える手立てがあるのに、「会いたい」といいながらも会わないのは怠惰だと思う。ほんとは「会いたい」なんて思ってないんだ。会いたいのに、会える手立てがないのが一番つらいんだ。
大人になったらきっと、お互いが会いたいと思ってなくちゃ、一生会えない。こうやって少しずつ昔の友達を、無意識にふるいにかけていく。
物語では、卒業式という、最後の最後の日に、人気者にとって自分はどうでもいい存在ではなかったと分かるのだけど。
これからも二人の関係が続いていけばいいと思う。どうかお互いをふるいにかけないように。
ジャムの果て
前の物語も、この物語も、第一印象とは異なる終わりを遂げる。
一方的だと思っていた想いは、(種類は違うのかもしれないけれど)実は双方向のものだったり。幸せで安らかな家庭は、お砂糖をたっぷり入れた偽物の甘さからできていたものだったり。
灰汁はジャムを濁らせるもの。だから取り除かれるべきものなのかもしれない。けれど本当に必要ないものなのかな。灰汁を取り除いて、お砂糖をたっぷり入れたジャム。子どもには疎まれ、消費されずにカビを生やしていく。ジャムの果ては無様だ。
気づきたくないこと、知らないほうが幸せなことって、どうして独りになったときに見つけてしまうのだろう。独りきりだと、逃げ道なんてどこにもない。ただじっと唇を噛んで、切れた唇から流れ出した血を飲み込むしかない。
家のなかが世界の全てだった主人公。その"家"を、自らの手でぐちゃぐちゃにした。お砂糖を入れない、純度100パーセントのぐつぐつと煮だった感情で。
もう"家"という世界は壊れてしまった。壊してしまった。家の外に、逃げ道があればいいのだけど。
五つ星をつけてよ
口コミ、レビューがないと物を選べない主人公。異様だなと思いつつも、私もネットショッピングをするときは必ずレビューを見る。自分がいいなと思ったものでも、星が少ないと購入するのを躊躇する。顔も分からない人の意見に踊らされている。馬鹿みたいだ。
「レビューを見なければ、なんにも買えない。」という帯に書かれた一言。この文に共感したから、私はこの本を手に取った。
異様なはずの主人公は、もはやこの時代では異様ではないのだろう。
レビューが1件もないものは、低評価というわけではない。誰もレビューを書いていないだけだ。まだ発売されたばかりで誰もレビューを書けないだけかもしれない。購入した人がみんなレビューを書くわけではないのだから、良い商品でもレビュー0件の可能性はある。だけど、レビューが1件もないことは不信感を募らせる。たとえば、レビューが0件のものと、レビュー平均が星4つのもの。どちらを選ぶだろう。私なら星4つを選ぶ。もしかしたら、レビュー0件のものが、星5つの価値を持っているかもしれないのに。
主人公の母は病気を患い、主人公には母という"指針"がなくなった。そののちに主人公がすがったのが口コミだった。口コミを指針として、家電を買い、服を買い、料理を作る。
結婚相手も自分の指針となってくれる人を選んだ。その人の意見に耳を傾けていれば、自分がなにをすべきかが分かる。自分で考える必要もないから楽だ。
安部公房の「鞄」を思い出した。自分が進むべき道はすべて鞄が決めてくれる。そこに自分の思考は一切入り込まない。鞄を持つことで生じる"自由"は、自分に責任が及ばない自由だ。損は負っても、その責任は自分にはない。すべての責任は鞄が背負ってくれる。責任を背負わないということは、なんて楽なことなのだろう。
自分の代わりに責任を背負ってくれるものを探さなくちゃならない。自分自身を指針にできることが、「責任を伴う自由」なのかなと思った。
君に落ちる彗星
人を批判することで生まれる安心。自分と同じ人を批判する人がたくさんいる安心。自分は「不特定多数」のなかに埋もれていく。
自分とは関係のない遠い人を批判するのは、批判したところで自分に影響が及ばないから。
自分の立場が不安定だから、他の人を見下して、自分の位置を確認する。
自分の批判が周囲とずれていないか確認して安心する。「やっぱり自分は間違えていない」。確認するだけで、悪口を言いふらすことはしない。おんなじ悪口を言っている人を見下している。俺はお前らとは違うと考えている。
批判者は傍観者だ。誰かを評価という名の批判をする立場に回れば、自分が見定められることはない。他人に今の自分を見下されることはない。傍観者という立場ほど楽なものはない。
彗星が落ちてくるように、急に傍観者である自分にスポットライトがあたったとき。もう傍観者じゃいられなくなる。人に評価される。それだけじゃなくて、自分自身もスポットライトに照らされた自分を嫌でも見なくちゃいけない。
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「キャンディ・イン・ポケット」と「ジャムの果て」が好きです。おもしろかった。
帰省のバスでは大抵女性作家の短編小説を読んでいる。なんとなく本屋へ行って、なんとなく手に取るのはいつも女性作家の小説。
バスの窓越しに見える建物の明かりや、オレンジ色に照らされた道路。カーテンを頭にかぶって窓の外を眺めている。雨が降っているときは、窓についた雨粒で外の明かりがにじんでいく。
大きな事件が起きるわけではない。登場人物の感情が些細なことで動く。
それが、バスの窓ごしに見る景色と私のなかでは結びついている。建物の明かりも、オレンジ色に照らされた道路も、些細なことだ。非日常ではなく日常のなかの光景だ。けれどバスのなかという外の世界とは分離した空間でみると、なぜだか心が揺れる。
何気もない日常のなかに、心が揺さぶられたりする。些細なことに、喜んだり、悲しんだりする。大きな事件は起きないけれど、なにかが変わる小さなきっかけになる。そんな感じ。
帰省のバスのなかで読む本は、大きな事件の起こる男性作家の小説よりも、ほんの小さなことに目を向けた女性作家の小説のほうが、寄り添ってくれる。
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