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#073架空の人物の歴史-身近な史跡、文化財の楽しみ方(14)

 表題だけ見られると、例えば田中芳樹『銀河英雄伝説』のような、架空の物語の中での時間経過、大河ドラマ的小説や、アニメ「機動戦士ガンダム」のような歴史の長い、年代記的なものを想像されるかも知れませんが、今回のお話は物語の中の架空の人物が実際の現実とリンクしてしまうというお話です。

 架空の人物が実際の史跡と関係するもののうち、恐らく世間的に最も知られているのは『三国志演義』に登場する周倉ではないでしょうか。周倉は劉備の義兄弟・関羽の股肱の臣となる人物で、もとは三国志の冒頭で語られる黄巾の乱に参加していた賊でしたが、戦場で見た関羽に心酔しいたという設定で、最初に登場した時には山賊稼業に身をやつしていました。200年に起こった官渡の戦いの前哨戦で曹操軍に敗れた劉備軍が散り散りになって敗走する中で、関羽は曹操に投降するも、劉備が見つかった暁には劉備の元へ戻るという約束をし、恩義を果たして曹操の元を去って劉備の元へ戻ります。その時に出会ったのが周倉です。折しも関羽と出会うことで周倉は山賊稼業を辞めて、関羽に仕え、その後、関羽の元で活躍し、関羽の戦死と共に殉死する、という一生が『三国志演義』の物語では語られます。その後、関羽は信義に厚かったということで商売の神様として信奉され、関帝廟に祭られます。関帝廟は中国のみならず日本においても中華街で祀られていますが、そこには、中央に祭神の関羽、左右に養子・関平と周倉が脇侍として祀られています。関羽はもちろん実在の人物ですが、架空の人物の周倉まで併せて祀られるというのが、それほどまでに民間にその存在が信じられ、信仰の対象とされているということでしょう。

 こういた例が実は日本の歴史上にもあります。南北朝時代に活躍した楠木正成の家来である、恩地左近と八尾別当顕幸です。周倉と比べるとなかなか名前の知られていない人物ですが、戦前など教育の場で楠木正成が多く登場した時代にはちょっと知られた人物でした。恩地左近と八尾別当顕幸は楠公八臣と呼ばれた、楠木正成の股肱の家来でした。
 恩地左近は現在の大阪府八尾市恩智北・中・南町付近を根拠地としていた武将で、楠木正成、正行親子に仕えた人物です。楠木正成が湊川の戦で戦死した後も、正行をよく補佐しましたが、延元二年(一三三七)七月に熱病で恩智の地で病没したといわれます。彼の墓が八尾市恩智中町に現在もあります。この墓は『河内名所図会』にも現状と同じ状態で記載があるため、少なくとも発刊された享和元年(一八〇一)以前には名所として知られていた場所と言えるでしょう。『河内名所図会』では、下記掲載の写真の左頁に描かれており、現在と同じ状態の石塔が描かれています。

恩智左近

 八尾別当顕幸は、八尾城主を務めていたこの地域の別当職を務めていた人物で、当初は楠木正成に敵対していましたが、後に下り、正成に仕えたと言われています。八尾別当顕幸の墓も現在あり、現在の八尾市本町にある常光寺の本堂北側にあります。

常光寺

 八尾別当顕幸の墓については、『河内名所図会』については記載がありません。挿絵には本堂右(北側)が隠れているので判りづらいですが、常光寺の紹介文の中では全く触れられていないので、おそらく『河内名所図会』発刊以降に常光寺境内に墓が作られて、八尾別当顕幸の墓として広く知られていくようになったのでしょう。

 恩地左近と八尾別当顕幸の二名は、『太平記評判秘伝理尽鈔』という本に登場する人物で、実は実在しません。恩地左近は、実際には「王寺左近」という和歌山方面を根拠地とする南朝方の武将で、名前の音が地域名に似ている所から、王寺が転じて恩地にされたのでしょう。また八尾別当顕幸は常光寺の資料上には全く登場しない、完全に架空の人物といえます。そもそも『太平記評判秘伝理尽鈔』は近世に作られたもので、八尾の代官をしていた唐津藩主・寺沢広高に伝授したものであるとの奥書のものが江戸時代に広く流布しています。つまり八尾に関する大名に納めたものということで、当該地域に関わる人物を多く登場させて、南朝方を活躍させているといった傾向にあるようです。このあたりは東洋文庫に所収されている解説に詳しいです。

 恩地左近と八尾別当顕幸はその後、地域においては広くその存在が信じられていきますが、『太平記評判秘伝理尽鈔』という物語が河内地域での南朝の活躍を記した物語であったということが、広く人気を得た原因だったのではないかと思われます。誰しも自分の出身地や住んでいる地域でヒーローが活躍したとなればワクワクするかと思います。それがこの地域でこの物語が広く信じられた一因であったでしょう。また昭和戦前期には楠木正成が湊川の戦で戦死して六〇〇年に当たるということで、昭和一〇年に楠公六〇〇年祭というイベントが各地で行われたこともあり、大阪では楠木正成に関係する地域が各地にあるため、非常に盛り上がりました。このような戦前の風潮に利用されて広く浸透した、という一面もあるでしょう。恩地左近と八尾別当顕幸について、それぞれの例を見てみましょう。

 楠公六〇〇年祭の行われた昭和一〇年(一九三五)五月二五日、地域の小学校の生徒、各種団体員、町会議員、有志らが会場となっていた小学校へ参列し、盛大に式典が行われ、式の終了後には八尾別当顕幸の墓へ参拝に行っています(『大阪朝日新聞』昭和一〇年(一九三五)五月二六日付)。
 昭和一四年(一九三九)には五月二五日に恩地左近ゆかりの地域である恩智地域では「恩地左近顕彰会」を設立し、石塔に対して積極的に顕彰運動を進めていくとし、「左近会」という会を設立し、遺徳をしのぶことや、青年団で「左近道場」という道場を開くことで心身の鍛錬を行うなどをしています(『大阪朝日新聞』昭和一四年(一九三九)五月二六日付)。

 このように、楠木正成はまさに「赤心(忠義の心)」というものに関連する人物であるため、昭和戦前期には大きく活用されるに至り、架空の人物である恩地左近や八尾別当顕幸も、楠木正成の家来だということで戦時体制下において戦意高揚のために積極的に活用され、実際の地域や歴史に影響を及ぼしていきました。皆さんのお住まいの地域でもひょっとしたら郷土の歴史として習っていることが架空の出来事や人物である、なんていう可能性もあるかも知れません。近年、「ナラティブ(narrative)」という言葉が広く使われるようになりました。「物語」や「語り」、「話術」を指す単語になります。人間が物事を理解するのに物語として理解する方がより判りやすく、広がりやすいという特性があります。このようなケースもあることを念頭に置いて、地域に伝わる歴史や伝承などを検証してみるのも歴史の楽しみの一つではないかと思います。

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Nobuyasu Shigeoka
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