福生にある、ハウスの喫茶店(2)
(1)の続きです。
ところで、ハウスと言っても分からないのでは、と思った。全国区の言葉ではないだろう。福生や、米軍基地が近隣にある地域だけで通じる言葉かもしれない。
ハウスというのは、米軍ハウスの略だ。横田基地に赴任してきた米軍兵士が基地外で住むときに使っていた住居のこと。
これは、以前は横田基地を囲って、福生や昭島、瑞穂町などに数多くあった。最も多かったのが基地のメインゲートがあって歓楽街が広がっていた福生で、それこそ普通の住居より多いくらいだった。当時は、いくら安くてもハウスには住みたくないという日本人が多かった。年配者などは特に。なんとなく往時は、底辺の居所というイメージだったのだ。
それが、1960年代後半くらいから、サブカルチャー的な雰囲気を持つようになって人気が出始めた。清志郎が住んでいたり、村上龍が書いたりして、若い人の需要が格段に上がった。
しかし皮肉にもその頃から、次々取り壊されていった。大陸の人間仕様なので、平屋で、とにかく庭がだだっ広い。庭だけでなく、家々の間隔もまた広い。日本人からしたら妙にアンバランスな無駄そのもののスペースで、貸し手は、退去者が出ても次の借り手を募らずに、壊して2階家やアパートを建てるようになった。壊したハウスの倍の数の建売住宅を建てられるのだから、そうするのも当然だ。
ぼくはその頃のことは、小さくてまだよく知らない。ハウスに住みたいと思ったのはもうちょっとあとになってのことなので、すでに、どの不動産屋でも扱っていなかった。80年代になると、住んでいる人との直接交渉以外、ハウスに住む手段はなかった。
それでも、ハウスが絶滅したわけではない。今もって、けっこう残っている。バブルのような土地の価値が上がった時代があり、それに耐用年数(1950年代に建てられたものが多い)の問題もある。よくこれほどの数が残っているものだ。福生を歩いていると、不思議に思う。おそらく、大量に建てられたことと、平屋だということが、現在も残っている理由ではないだろうか。あと、人気が出てから住みだした人たちが、だいじに使っていたことも、残った理由のひとつだろう。
しかし、やはり年月は家屋を確実に風化させる。現在、無人の廃墟となっているハウスが多いのも事実だ。
これまで、何世代の家族がここに住んだことだろう。普通の賃貸に比べ、住んだ人たちの住居への思いはかなりの差があったことだろう。
そのハウスを見学できるところもある。こういったところは、福生ならではの特色だ。瑞穂町や武蔵村山市では、ハウスはあっても散策する人たちがいない。
ただ、この日は平日だったので、閉まっていた。この画像で庭の広さが分かっていただけると思う。これくらいのスペースがあってこその、ベンチだ。楽々バーベキューができる。
その昔ハウスが嫌われたのは、日本の家屋に比べてオープンな感じの造りだったこともある。なんとなく落ち着かないのだ。
しかしそれが逆に、アーティストや自由人たちに、ぴったり合うことになる。福生以外の出身者が続々集まってくることになった。そしてそのオープンな感じの間取りを利用して、自宅兼店舗にする者も出てきた。
その流れを汲んで、ハウスの店舗が福生東口(横田基地側)に点在しているのだ。
(3)に続く