【時を刻む】自己紹介その3 設計事務所でのキャリア
無職。から福井県小浜市での下積み時代
さて、前回の自己紹介その3ではバックパッカーになり帰国した所までを書いた。高野山での半年間の修行。その後、半年間のヨーロッパ建築旅行を経て帰国、22歳にして見事に「無職」になった。しかし、不思議となんの不安もなかった。
日本には、常にどこかに所属していなきゃいけないフワッとしたプレッシャーみたいなものがある。「あなた、そろそろ働くんですよね?」と、修行を終えたので、「お寺も手伝うんですよね?」という無言の圧力を勝手に感じつつ、ぼちぼちと動きだすことにした。
そこで、少なからず建築学を学んだ私は、親のつながり(ツテ)でいくつか設計事務所を紹介してもらう。面接に行き「何か手伝えることはないか?」と、お尋ねするところから始めた。のも束の間、そのうちの1社で「やってみるかい?」と快く引き受けてくれる小浜市の設計事務所に出会った。そこは、30代、40代、50代、60代がそれぞれ1人ずついる設計事務所で、公共も民間も幅広く設計をする設計事務所、その中に20代の下働きとして入れてもらう事になった。
おかげさまで、若手が1人なので何でも教えてもらえるし、「クライアント協議、行政協議、建築確認申請、現場監理」など、ほとんどの実務を短期間にかつ先輩方に叱咤激励を受けながら学べた。今思うと恵まれた環境で本当にありがたかった。その事務所は小浜市の内富という場所にあり、目の前には内海が広がっており、昼休みに社長の船に乗り込み、よく空を見上げ寝そべっていた。しかし、有り余るエネルギーを保持していた20代の私は、1年そこそこで飽きてしまったのである。
時代の空気と流れが変わる、いざ、東京へ
「もっと大きなプロジェクトに関わりたい」「もう少し高い技術を学びたい」「もっと自分を高めたい」と、早々に東京に出ることを決意をしたのにはこんな背景がある。数年前、就職氷河期だった世の中が「団塊世代が一斉に定年して人が足りなくなるぞ!非正規雇用だ!うまくリスクを取りながら、人を確保しろ!」と少しずつ変わっていく空気ができつつあり、「お!なんか社会が動きそうだなぁ」と感じたから。(昔からそういう直感には長けている。)実家の荷物を最小限にまとめ、ひとり東京へ。アパートを探し、丸の内線新中野駅徒歩3分、1R、足早に引っ越しを決めた。しかし、大変だったのは両親の説得である。特に母は頑なに口を聞いてくれなかった。(笑)(大学卒業>修行終え>実家近くで就職>どこか大きなお寺に嫁ぎ(二男だし)…みたいな考えがあっただろうか)まぁ、ガン無視して、そそくさと東京に行くのです。大学の先輩たちに連絡をして、バイトをしながら小浜時代の仕事をポートフォリオにし、大手設計事務所のランキング上位から応募していく。そうすると、あの「日建設計」の子会社がアルバイトとして採用してくれた。
20〜30代は、何でも全吸収する時間
とにかく、すごい設計事務所だった。「木造、住宅、木造公民館」から「鉄骨、コンクリート、空港から超高層ビル」まで、目の前に現れた「建築の学び」はとても広大で広く、そして、どこまでも深いものが見えた。こりゃ、1〜2年じゃ終わらない、軽く10年はかかると見積もった。そこからは、縦横無尽に社内営業して、何でもアルバイトとして社内を走り回った。(功を奏したのは、小浜の下積みがあり、同年代よりも図面が書け、申請手続きも出来ることが役に立った)
なにもかもが新鮮で、目の前のありとあらゆる図面や資料を作業と作業の間に読みあさり・調べ、わからないことがあれば、何でも聞きまくった。家にも帰らず、会社(飯田橋)近くのサウナで整い、仮眠程度で働き続ける毎日。あの頃の自分を振り返ると、とてつもないエネルギーを放っていたんだろうなと思う。気がつけば、子会社から日建設計の本体の社員にしていただき(その時代でも稀な例だった)、出張が多くなり、複数の現場を掛け持ち、いくつもクライアントを担当していた。空港、生産施設、工場、研究所、データセンター、物流倉庫、どんな用途でも設計にチャレンジした。誰もやりたがらないものには必ず学びがある。与えられる仕事があるだけ恵まれている。常に感謝を忘れず、ひたむきにまっすぐに走り続けていた。そんなことをしながら、大きな組織の縦割りが気になって、横串しを刺す活動として「社内フットサル大会」を仲間で企画していた。その中で、社内では誰もが恐れる最年少部長に出会う。
憧れの上司との出会い、そして別れ
設計部門にも都市開発部門にも、自分の部署を持ち、営業・設計・関係者調整、コスト調整、なんでも現場をやり切り、若くして、大企業クライアントのカウンターを張り、鬼のように仕事をする人。その彼に目を留めていただけた。あれよあれよと彼の部署に転籍、設計と開発を横断しながら、まさに「仕事を生み出す瞬間」を学んだ。すごいバイタリティだった。ちょうど1周りしか年が変わらないその上司は、遊びにも仕事にも全力で、本当に憧れの存在だった。みんなは怖いと言うが、「言っていることは本質的」なので、特に怖いと思ったことはない。彼のそばで学び、彼からさまざまなことを吸収しようと一緒に奔走した。大きなプロジェクトの仕込み方、人間関係の繋ぎ方まとめ方、銀座の遊び方、ゴルフなど、人心掌握も含めて、さまざまな人との出会いもいただいた。そして、私自身チームにも馴染み始めた矢先、事件は起こった…。
その上司が急逝。
突然、亡くなってしまったのだ…。
すべてが止まった。自分の中の強い衝動も消えた。
どんな言葉も出てこない…。
気がつけば、日建設計に12年もいた。当初の10年という見積もりは甘かったが、目の前のことがすべて、身となり血となり肉となっている実感はあった。
東京へ出てきてから、がむしゃらに向き合った仕事で得たもの、憧れの上司から受け継いだこと、そしてその彼を失くして気づいたこと…。複雑な思いを抱えながらも前に進むしかなかった。
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次回の自己紹介その4は、大手事務所での経験、設計スキルを活かした新たなキャリア形成へ。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
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