自分の機微を見つける100日ドリル 8-1
さて、今日も書いてみよう。
お隣の西粟倉村での初の試み、森の中の表現展『森々燦々』が、一か月間の会期を経て昨日終了した。ひと月の間風雨にさらされ、季節の移り変わりとともに作品たちも変化していった様がよくわかった。
羽釜や長靴には雨水とが葉っぱが溜まり、ことばが書かれた石は落ち葉のおふとんに包まれて気持ちよさそうだった。季節は進んで、かわいらしい木の実がそこかしこに見つけられて、、森のようちえんの毎日のおもかげが、自然が経た時といっしょになってた。
アーティスト、だって!こそばゆいぜ!私は、アーティストにもなった。
そして、こそばゆくたって、そうなってみたいって、言ってみたいって、ちょっとでも思ったら、やるんだよ~。
いーや、めちゃめちゃ憧れていた。アーティストに。いやしかし、アーティストって何よ。なんだと思ってるから憧れるのよ。それは小沢剛さんと東京藝大の学生さんと森のようちえんの子どもたちとの活動の中で、感じた。
限りなく純粋に楽しさを求め、あと先もなく、美しいものに目を輝かせ、もっとこうしたい、こうであってほしい、おもしろい!つまらない!こっちがいい!!それは自分の感情・感覚の表現の純度。こころの赴くままに。それが一番大事。
そんな小さな小さな自分の世界に生きる人が、大人になるにつれて社会の矛盾を感じたり、社会的に一律に揃えようと働く力に曲げられそうになり、、それでも純粋に、子どもの心と目を失わずに、自分の美しいと感じる世界を表現し続けることをやめなかった人、それがアーティストと呼ばれる人なのでしょうか。
自分の過去記事を読みなおし、抜粋して一部変更。感じたことを言葉にできてるじゃん。さすが。自分で自分の言葉に感動しよう。感動自家発電。続く抜粋。
しかし、子どもを見て、なつかしみ、なにかせつなく、あこがれる。そんな気持ちを抱く人は、みな、思い出そうとしている。自分の純粋さを。
こころの赴くままに、ひろがる世界と、共にほんものの喜びを表現することを、自分に取り戻したいと。
その点で言えば、やはりアートやクリエイティブ、というものは一部の人のものではない、と思いました。
みんな、社会的な人間として立ち振る舞うことをいつかの時点で受け入れ、全ての人間に備わっているはずの根源的な詩的芸術的本能とは一旦お別れをしている人も多いんではないか。
でも、絶対に、ある。
それを思い出させてくれるのが、子どもという存在であり、我々大人は、なつかしさとせつなさとあこがれをもって彼らを見、思い出すことを思い出そうではありませんか、、。
なんか変なテンションになってきましたけど、私の書きたいことはこういうふうなことのようです。
抜粋終わり。
小沢剛さんと学生のみなさん、こどもたちとの活動があったから、私もその本能を思い出し、詩的芸術的表現の本能がーーー!って、やった。これからもいろんな形で表現してみたい。ちゅーか、もうしてる。文章でも表現し続けてた。しかも感動自家発電した。
昨日の機微を振り返ったら、数か月間の自分の表現活動を自分でしっかりと見つけることができた。前の自分が書いた文章の中にも、たくさん、今の自分に大切な機微が含まれてた。見つけた。思い出した。
一旦おわり。
今日はめっちゃ早起きしたし抜粋ばっかしやったからもう一本書こう。
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