高瀬隼子 『おいしいごはんが食べられますように』 ルサンチマンと労働イデオロギー
読書会用に読んだ。中編小説をデカいフォントとスカスカのレイアウトで無理やり1400円(税別)の本に仕立て上げる出版社のみすぼらしい精神には辟易するが,中身はそこそこおもしろく,あれこれしゃべりたくなる点で読書会向きの本でもあった。
本作はごはんと銘打っているものの食事云々はおおむねフェイクで,全体を貫く軋轢はむしろ仕事観,労働をめぐるイデオロギーの対立に由来している。「昔の人」「今どき」等の時代性を帯びた語が頻発する必然性もそこにあり,彼/彼女らの対立は現代社会の問題にそのまま接続できるものだ。
そもそもごはんに異常にキレてる変なやつは二谷だけだし,その二谷にしても食事嫌悪が「憎むものの結果でしかない」のは押尾が洞察したとおりであるから,メシが云々語るだけでは読解たりえない。これは一読してほとんど明らかなように思われたが,食事がふつうに好きな人からすると二谷の異常性ばかりが目立ってしまい,原因にまで興味が向かないのかもしれない。二谷キモいからね。
とはいえ感想を書くにあたって食事の描写をスキップするわけにもいかないので,自説の補強がてら荒木優太のツイートを見るところからはじめよう。
二谷の人物像は説得的か
在野の文学研究者・荒木優太は本作に批判的で,たとえば二谷が本当に食事嫌いなら「おにぎりはレンジで十五秒だけあたためる(p.122)」なんて丁寧なことしないだろ,とケチをつけていた(はず)。残念ながらソースが見つけられなかったが,栗原裕一郎の以下のツイートを見るに,わたしの記憶違いではなさそうだ。
荒木の批判はあまり賛同を得られなかったようで,のちに次のようなツイートをしている(つづく議論にもかかわるので,少々長めに引用した)。
いちど自説を離れて「食事嫌い」の話に限れば,わたしは荒木の批判に完全に賛同する。コンビニのおにぎりなんて温めないだろ! カップスープの中に叩き込めばいいじゃねーか。そもそも二谷はなんで鍋持ってんだよ。ケトルでいいだろ。わたしのようなクソ不味いフルーツグラノーラを袋から直接口に流し込むだけで一日の食事をすべてまかなえる人間からすると,鍋なんて真面目なものを持ってるくせに食事嫌いを自称している二谷はフェイク野郎だ。お前はものぐさを舐めている。ものぐさエアプ。なにが「にんじんは,なんていうか遠い」だ,鍋で人参入りのカレー作ってる時点でお前はまともだ。ベースブレッド箱買いして出直せ!
それから二谷がカップ麺の汁を流しに捨てたあと「上から水道水をたくさん流して,匂いも逃がす(p.38)」という描写も信じがたい。カップ麺はマジでクサい。あの悪臭はそう簡単に逃げない。でも食う。楽だから。そして塩分過多からくるニキビと肌荒れで顔面が終わる。さすがに野菜とるか,と思ったらコンビニのカット野菜をそのままかじったり(かなり不味い),カップ麺をタンメンに変えたりする。二谷,お前ごときが食事アンチを名乗ってんじゃねえぞ,鍋野郎のくせに……。かぼちゃチップスなんて洒落たもん食いやがって。お前にはがっかりだよ……。
話を戻そう。荒木優太はリアリズムの欠如を理由に本作を批判しており,その根拠として(今参照できる範囲では)①食事嫌い,②未練,のふたつの不自然さを挙げている。しかし少なくとも①の不自然さは,むしろ二谷はたいして食事が嫌いではなく,”ほんとうの欲望から目を背けた反動的な態度──読書会で他の人から「リスカ」というぴったりな言葉が出た──があらわれている” と読むべきだろう。いちいちカップ麺でお口直し(?)をしたり,芦川にキレて作りかけのカップスープを捨てたり……二谷は反抗期の中学生みたいな男なんだから,一貫性を求めても空を切るだけだ。
では②未練についてはどうか。たかが文学部でなく経済学部を選んだというだけの理由でいつまでもウジウジ気色悪いルサンチマンを垂れ流しながら,そのくせ仕事はそこそこストイックにこなしているような男が実在するか。
するだろ。少なくともわたしはそうなので(つまりわたしは反抗期の中学生なので),二谷のしょうもない幼稚さにはふつうに説得力を感じる。荒木優太はちょっと想像力が大人すぎるのではないだろうか? クソしょうもない未練に憑かれながら人生をやっている人はいくらもいる,とわたしは信じているし,そもそも未練とはしょうもないものだ。しょうもないのに逃れられないから困っているのだ。そうでしょう?
あなたはこう反論するかもしれない:でも二谷って全然本読んでる感じしないじゃん。これはそのとおりで,二谷が自発的に本の話をする箇所は一度もない(はず)。本の存在が明らかになるのは押尾の視点を通してであるし,芦川といる時も「お笑い動画を見たかった(p.35)」とか「映画やドラマを観たり(p.109)」とか言ってるだけで,文学に対する欲望は二谷からほとんど感じられない(註1)。
そのとおりなのだが,だからこそそれっぽいのだ,と言いたい。就職,労働,成熟……二谷が「好き」より「正解」を選ぶ(註2)のは,単に彼が凡庸で,賭けをする力も情熱もないからだ。かつての二谷はいざしらず,今の二谷にとって文学は単にルサンチマンの源泉であるにすぎないし,そしてもはやルサンチマンだけが(!)彼のよりどころなのだ。こいつは「文学部を選べなかった俺」というしょうもない未練の蜜を吸いつづけ,今の人生をないがしろにすることで逆説的にその未練を未練たらしめようと──つまり俺はやはり「好き」を選ぶべきだったと結論づけようと──している。そう読むほうがしっくりくると思うのだけれど,どうだろうか。
「夢を見すぎだろ」と否定してもなお見えてしまうのが夢なのであって,また夢が夢想家でなくニヒリストを生み出すのもなんら不思議ではない,とわたしは思う。もっとも二谷のルサンチマンに共感を示す感想をほとんど見たことがないので,残念ながらクソガキの精神を捨てられぬまま生きているのはわたし一人なのかもしれないが……。
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軋轢の源泉はなにか
芦川と押尾について
雑に言えば芦川は家父長制的な旧世代の女性モデルを,押尾は能力主義的な現代の労働者モデルを,それぞれ内面化している。
もちろん芦川は一方で〈権利〉思想の拡大に乗っかって早退欠勤を繰り返すきわめて ”現代的” な労働者でもあり,ある程度は打算的に生きているのは間違いないように思われる。ただし芦川視点の語りが一切存在しない(註3)ことから明らかなように,作者は芦川の苦しみの真偽をわれわれにジャッジさせないようにしているし,実際すべきでもない。
……ここは重要なので強調しておくが,押尾の感性に賛同できる人であればあるほど,芦川のジャッジには慎重であるほうがよい。一人称の語りが不在であるだけでなく,「(芦川の)顔色の悪さは真実だとも思う(p.66)」という発言が二谷の視点からのみなされ,押尾の視界に芦川の顔色は映っていないこと──こういう小技が本作のうまいところだ──を,軽視すべきではないだろう。
とくに ”繊細ヤクザ” という語を嬉々として使う人は,「実は芦川は◯◯で……(◯◯には任意の弱者の属性を代入すること)」という語りが仮に追加されたとき自分のポジションが揺らがないかどうか,揺らがないとして排外主義に陥っていないかどうか,この仮定の無意味さも含めてよく確かめておくことをおすすめする。
さて,芦川による女性性の利用──間接キスとかハグとか──と弱者性のハッキング,これら両方に反感を抱いているのが押尾だ。押尾がときおり口にする「平等」は単にメリトクラシーの裏返しだが,割を食うなら「せめて出世したい(p.48)」と ”正当な” 評価を望む押尾の感性は,同じく生産性至上主義に染まった現代人ならおおむね共感できるだろう(註4)。押尾に一人称の語りが許されている理由もおそらくはそこにある。
押尾は藤の「みんな自分の仕事のあり方が正しいと思っている(p.43)」という発言にある程度納得する。すなわち彼女は労働観の相対化は受け入れる。が,個々の労働を評価する高次のシステムとしては相変わらず能力主義を採用したままだから,芦川にたいする苛立ちが消えることはない。
芦川より優位に立ちてェ……押尾のこの欲望は,二谷を芦川から奪うというかたちで現れる:
もっとも,女性性において芦川に勝利をおさめた(註5)つもりの押尾はしかし,弱者性によって敗北する──この戦いの中で,二谷は単に通貨として機能するにすぎない。
二谷について
そういうわけで,本作のえがく軋轢において二谷の占めるポジションは実際かなり狭い。これがわたしの見解だが,いちおう二谷の立ち位置も確認しておこう。
たとえば二谷が押尾に「この人とおれは根っこのところが似ている(p.118)」と感じるのは,以下の記述に由来する:
要は芦川ほどふてぶてしくなれないというだけの話だ。キリスト教がひとつの発明であったことからわかるように,奴隷道徳的な強弱の反転を凡夫が成すのはむずかしい。二谷の思想はみみっちくて仕方ないが,しかし最後の一文「そんな会社つぶれたらいいというのは思考停止がすぎる」は重要だ。
というのも,思考停止しているのは紛れもない二谷本人だから。こいつは自分でつけた傷を自分でえぐる以外にものを語る術を持っておらず,思考停止とかなんとか言いながら,結局はただ社会が与える正解に流されているだけである。恋愛や労働に文句をたれつつも所詮は正解を拒絶するだけの力がないから,大きな構造を批判するだけの覚悟がないから,狭まりきった視野で ”ごはん” に絶望を投射することでかろうじて生をつないでいる。
冷静に考えてほしいのだが,いくら飯を作るのに時間がかかるからといって,晩飯を作るだけで「おれが生きている時間」が「三十分ぽっちり」になるのは明らかに飯のせいではない(p.123)。人生の時間を毀損しているのはどう考えても労働であるのに,恩義など欠片もないクソみたいな職場を維持することになぜか二谷はご執心で,残業を憎まず飯を憎んでいる。端的に言って意味不明である。
しかし二谷を笑ってはいけない。こういう人はたくさんいるから。どう考えても会社に奪われている時間のほうが長いはずなのに,電車がほんの十分遅れるだけで血管が破れそうなほどキレてるサラリーマンとか,たくさんいるでしょう?
あわせて本作には貧困の色もほの見えている。二谷は単行本を「高いから(p.152)」買わないそうだが,女にメシを作らせ,さして娯楽に興じる様子もなく,埼玉住み(註6)でさほど家賃も高くないだろう男がなぜ単行本すら買い渋るのか? 明らかに労働に向いていない肉体/精神の持ち主である芦川が,「結婚したら,お菓子作りばかりはできなくなるから(p.136)」と,専業主婦を一切視野に入れず働きつづける予定なのはなぜか?(註7)
本作が単に彼/彼女ら個人の問題として受容されているところに,現代の病理がある。企業の歯車として生きていかねばならないという現実はもはや改革不可能なものとしてあり,デモも革命も無効な世界で彼/彼女らはメシにケチをつけたり男を寝取ったりして自分を慰める。むなしい,あまりにもむなしい……。
結末について
二谷が正解に流されて結婚をほのめかすのはもはや当たり前すぎてどうでもよく,「押尾さんが負けて芦川さんが勝った(p.138)」のもほとんど既定路線なので言うことがない。「当然,弱い方が勝った」などと洒落た書き方がされてはいるが,実際は押尾の正視に耐えぬほどヘタクソな権謀術数に二谷の間抜けなキルアシストが重なっただけであって,ここの芦川の勝利に繊細ヤクザ的な当事者性の暴走を読むのはかなり微妙である。
終盤で重要そうなのは押尾のセリフくらいなので,一応順番に見ていくことにしよう。
たとえばこれら:
しかし押尾はふつうにチア部の友達と信州にメシを食いに行ったりはしているわけで,ここは二谷と通じ合っているように見えて,実際のところ押尾は職場のカスみたいな奴らと一緒にメシ食うのキツすぎと述べているにすぎない。
つづいてこれ:
ここでは中盤(p.85)の「人の応援とか励ますとか好きじゃないんだ,でも得意で,できちゃうんだって分かって。なんかそれ,仕事と似てる気もしてて」というセリフが回収され,なんとなく健全でイイ感じになっている。
まあ,得意なことを仕事にできたら結果的にセルフケアにもつながるよね,ウンウンそうだねぇ……というくらいの話だろう。
では,最後のこれはどうか:
正直,この発言はかなりわかりづらいと思う。わたしは理解できていない。国語的な読解を試みるなら,まず「一人で食べるごはんがおいしい」というのは直前の発言:
を受けており,単に同調圧力がかからないとうれしいという程度の意味だ(としか思えない)。押尾のいう「一人で」は便所飯のようなぼっち根性(註8)ではなく,個が個を保ったまま共同体で意見表明できる状態を指している(としか思えない)。したがって最後の一文「力強く生きていくために,みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は,必要じゃない気がして」は,共同体の感覚に同化する必要はないよネという程度の話と思われる。
そしてこれが「成長」とされるのは,明らかに二谷の以前の「成熟」発言:
を受けており,要は社会通念に反して押尾や二谷のほうがある意味では「成長」していると言いたいらしい(主語の「わたしたち」は二谷と押尾を指しているとしか思えない)。
ただし,これは「助け合う能力」──おそらくは ”個性/多様性の尊重” 的な相互扶助の精神──からは生み出されておらず, むしろそれを手放し捨て去った先にある……。ここが本当によくわからないのだが,相互扶助の精神をハックしたのが芦川である(と少なくとも押尾は考えている)こと,二谷が「ただ受け流すだけのような,心をここに持ってきていないような感じがする(p.55)」男であることを思えば,押尾にとっての安寧は配慮ではなく無関心によってもたらされるという話なのかもしれない。
いちおう整合性は取れているように思う……のだが,今のところぜんぜん自信がない。というのも,本作の他の部分はかなり単純かつ類型的な解釈が可能なのに,この押尾の発言だけ妙に尖りを感じるからだ。
確かにどうでもよくなることこそ問題の究極の解決策であるという考え方はある。おいしいと思えないからなんなの? 部落出身だからなんなの? 黒人だから,女だから,ゲイだから,アイヌだから,イエローモンキーだから,それがどうしたっていうの? そんなこと,どうでもいいじゃないか。確かにこれはある種の受容の形態ではあろう。しかしそれは歴史の忘却ではないのか,そもそも相互扶助の失効は押尾個人の見解にすぎないのではないのか,だいたいなぜ力強く生きる必要があるのか,無関心は弱いものを殺すだけではないのか……。
ふつうに解釈したら「わたしたち」という言葉は二谷と押尾を指しているとしか思えないから,普遍的な命題として受け取ろうとするのはお門違いかもしれない。しかしこのセリフが作中で占める特権的な地位を思うと,本作の過剰なまでの時代性と相まって,どうにもこの「わたしたち」が普遍的な ”わたしたち” に当てはまるような気がしてしまう。読者であるこちらも押尾の見る世界に組み込まれていくように感じてしまう。
果たして ”わたしたち” は,助け合う能力を失いつつあるのだろうか。デモも革命も無効な世界で,構造にも他者にも無関心なまま生きるのが「正解」になっていくのだろうか。そうではない,と言いたいが,力強く否定できないのは,わたしが反抗期の中学生だからか。
***
と,色々書いたけれど,わたしは本作を取り立てて高くは評価していない。類型的な人物描写は歴史記述の粘土板としては価値があるのかもしれないが,それはすぐに古くなるリスクと表裏一体だ。結末については単にわたしの国語力が低くて意味不明な解釈をしているだけの気もするし,芥川賞なんてもはや本屋大賞とかこのマン同様,出版社のさもしい販促キャンペーンでしかない。
それにほら,わたしは冒頭で引用した文章のほうがずっと好きだから……。最後にもう一発引用しておくとしよう:
いやあ,染みるねえ……。
註釈
1 文学に対する欲望
二谷が唯一 ”文学っぽい” ことを言い出すのは,次の部分だけだ。
これは小林秀雄『当麻』の「美しい「花」がある,「花」の美しさという様なものはない」を意識していると思われるが,能楽という元の文脈を離れてクリシェと化したこの言葉を借りるようにしてしか ”文学っぽい” ことが言えないあたりに,二谷の安っぽい魂が透けて見える。もちろん,安吾の引用を繰り返してニヤニヤしているわたしも同類。
2 二谷は好きより正解を選ぶ
作者インタビューで,高瀬隼子は以下のように述べている。
3 芦川視点の語りが存在しない
もしこれが芦川視点で「立っていられないほどの頭痛に襲われたのでやむなく早退を選んだ」とか,あるいは逆に「少し眠くて集中できないので頭痛を理由に早退した」とか書かれてしまったら,途端にカスみたいな作品になる(押尾と芦川の戦いに解答ができてしまうので)。他者の感覚はわからない……のではなく,感覚がわからないことがはじめて他者を生み出す。
4 メリトクラシー
日本のメリトクラシーは戦後からすでにはじまっているようなので(小玉 (2009)『学力調査の思想史的文脈』など),正確には家父長制と能力主義をそのまま世代の差異に還元することはできない。丁寧に語るなら女性の社会進出思想の変遷や「生産性至上主義」概念の再検討などいろいろやるべきだが,そこまでする気力はない。
5 押尾の芦川に対する勝利
実際は,仮に浮気がバレても芦川がダメージを受けるかどうかは疑問だが。むしろそこからが奴隷道徳の魔力の本領発揮という気もする。
6 二谷は埼玉住み
東京・赤羽から荒川をまたぐと埼玉・川口であり,ほんの一駅遠のくだけで家賃相場はだいぶ落ちる。京浜東北線の車内映像では「赤羽より安いから川口に住んでくれェ(大意)」という悲しい宣伝がときおり流れる。
ところで本作はやたら県名が大量に配置されたり──埼玉,東京,大阪,千葉,福岡,岡山etc──,食事をえがく都合上やたら国名が大量に出てきたり──イタリア,ブラジル,ベトナムetc──するのだが,ただ記号的に羅列されるのみで中身はまったくない。せいぜい「自由が丘って東京の? 東京まで行くの(p.89)」とか「福岡です。博多じゃない田舎の方ですけど(p.83)」とか,薄っぺらい中心─周縁の構図が申しわけ程度に出てくるだけだ。本作におけるマクロな視点の欠如は,こうした地域性の欠如とも地続きであるように思う。
7 専業主婦
念のため言っておくが,わたしは「芦川は専業主婦になるべきだ」という規範的な主張をしているわけではない。選択肢に入っていないのが不思議なだけだ。1980〜90年代なら,芦川はおそらく「寿退社」していた人間であろう。
8 便所飯
これはなんの関係もないのだが,わたしは浪人時代に意味もなく便所飯を繰り返していたことがある。