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上の立場の者が下の立場の者を「怒る」と無能が露呈する

「怒る」にも色々理由があると思いますが、一般的に

親 ⇔ 子
先生 ⇔ 生徒
上司 ⇔ 部下

といった上下の関係性のなかにおいては「怒る」という行為はいま一度見つめなおしたほうがいいかもしれません。

もちろん怒りたくなることがあるのもわかります。人間みな聖人君子というわけではありませんから、「いい加減にして!」と思うようなことがあれば怒りたくもなるでしょう。


ですが、その前にちょっと待ってください。
その「怒る」という行為、本当に適切な判断ですか?


友人関係や恋人関係、その他対等なの関係性において「怒る」というケースの多くは、怒られる側が一方的に怒る側のスイッチを入れてしまったというのがほとんどでしょう。

怒らせるようなことをしたのですから、その原因が妥当なモノであれば怒られる側の自業自得ですし、怒る側も怒ることそのものが適切と言ってもいいかもしれません。


しかし、これが上下関係…すなわちの関係性になってくると少々状況が異なります。みなさんは今まさに怒っている状況をイメージして、その「怒る」きっかけについて真剣に考えてみたことはありますでしょうか。

そもそも「怒る」ということは、怒られる側…つまりは下の立場の者が、上の立場の者に怒られるようなことをしたからにほかなりません。

ですが親も先生も、そして上司も、下の立場の者(子供や生徒、部下)に対して日頃から管理監督の義務が伴います。その義務を放棄するのであれば、上の立場としての権利・権限を主張するものではありません。立場…役割には相応の権限が与えられますが、その権限の大きさと同じだけの責任・責務が付随します。

三面等価の法則

そして「管理」とはなにも状態・状況などを把握していればいいというものではありません。管理…すなわちマネジメントには情報の把握の他にも

  • 環境を整える

  • ルールを作る

  • 実行を促す

  • 育成する

  • 改善する

など、より良い結果に導くためのコントロールが求められます。そもそもこれらのコントロールが有効に機能していれば「怒る」ことをしなければならないような状況に陥ることはありません。怒りたい状況になっているということは、日頃からの管理監督が不十分であることを意味するのです。

言い換えれば、

 怒れば怒るほど、日頃なにも管理できていない
 =上の立場の者としての義務が全うできていない

ということでもあるのです。全うするだけのノウハウや技量が足りていないのであれば上の立場として未熟であることを意味しますし、全うするだけのノウハウや技量が足りているにもかかわらず実施する気がないのであれば人間性に欠陥があると言っても過言ではありません。

端的に言えば、縦の関係性において「怒る」ことは筋違いなのです。


本当にその立場において優秀であれば「怒らなくてはならない」ような状況を日頃から作りませんし、作らせないようにコントロールします。そしてそれでも怒らなくてはならないような状況になった時は、自らの管理能力が未熟であることを恥じて、自らの改善やルール、環境の改善に取り組みます。

そうしてすべてが十分に整った状態・状況にしたうえで、それでも下の者が「怒られる」ようなことを確信犯的に継続する場合に限り、怒ったり、評価を下げたり、罰を与えたり…と、何かしらのペナルティを考える資格が与えられます。

とはいえピーターの法則にもあるように、立場が上になればなるほどそうなる前の実力とは異なる能力が求められるため、結果的に親や先生、上司になってしまったとしても能力や実力が伴っているとは限りません。

上の立場になればなるほど、(その立場に求められる能力がないという意味で)無能は増える仕組みになっています。だから、今現在が無能であることを恥じる必要はありません。問題はそのことを自覚した後です。これから、上の立場の者としてどのように立ち居ふるまうのかが重要となってきます。


ですが、

「これまではそれでよかった」
「前はこれで成功した」

などという言い訳ばかり使う以外の根拠を持たない人は要注意です。

立場が変わる前の経験や体験など、「立場が変わる」「立場が変わって状況が一変する」「立場が変わって求められるハードルが上がる」という条件の違いに耐えられる言い訳となっていますでしょうか。

一つひとつの出来事は、二つとして同じものはありません。
似てはいても、まったく異なるものです。

子育てもそう。
教育もそう。
ビジネスだってもちろんそうです。

にもかかわらず、一度の成功や他人の実績を見て、ただ真似るだけで何も目の前のことに向き合って考えようとしない人に、そうした言い訳はよく見受けられる光景です。

 「昔正しかったことが、今も正しいと思うな」

というのは、子供のころから今までずっと自分に言い聞かせている言葉の一つですが、その言葉が示すように過去の成功や実績はその当時の条件に合致したから上手くいったにすぎません。

今目の前にある課題や命題に対してまったく同じ条件が整っているかどうかを確かめようとはせず、盲目的に過去に固執するのであれば、それはやはり控えめに言っても(その立場においては)無能と言わざるを得ません。

一発屋芸人が1~2年でメディアから消えていくのと同じ原理です。

そう言われたくないのであれば、あるいはピーターの法則に自らも陥ってしまいたくないのであれば、目の前にあるものをしっかりと見て、これから誰かを「怒らなくていい」ようにするために今自分の立場では何をすべきなのか、何ができるのかを考えましょう。常に思考を巡らすことです。

怒ることは1人ではできません。
常に相手がいて初めてできる行為です。

であれば、怒る可能性のある相手に対して、怒らなくても良くなるすべてのことをしてあげてください。それが出来なければ、それは「怒る」といった他責にして解消していいものではなく、必要な管理監督ができていない自らを恥じて、責めるべきなのではないでしょうか。


私は20年以上前には既にそう考えていたので、社会人になってから一度も「怒る」という行為そのものをしたことがありません。少なくとも下の立場の者に対しては、そんな感情が芽生えることさえただの一度もないのです。これ、嘘のようなホントの話です。

もちろん常に自分が優秀だった…などと慢心しているわけではなく、問題が起きれば他責にするのではなく自責し、(どーせやってしまったものは仕方がないのだから)問題を解決し、再発防止するための様々なことを実行することしか考えていなかったのです。問題がなかったわけではありません。

そうやって何年もかけて自らが上の立場になった時に、上の立場の者として下の立場の者に

「怒られるようなことをさせない」

仕組みやノウハウ、環境づくりなどの構築を培ってきたわけですから、当然今では大抵「怒らなければならない」ような状況そのものを生み出すことがなくなりました。他人を責めるのではなく、自らを改善し続けた結果、いわゆる「無能」となることはなくなったのです(有能かどうかはまた別ですが)。


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Takashi Suda / かんた
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