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正気とは何ぞや / 「ローズマリーの赤ちゃん」

まるでオリンピックのように数年ごとに未成年の女子を"性的虐待"していたと告発されるポランスキー監督は、キャリアの初期に撮った名作が全てサイコ系である。妊娠していた母親を強制収容所で亡くし、本人の心のなかでは"正気とはどういうことなのか"という問題意識がいちばん大きいのだろう。イギリスで製作した1965年の映画「反撥」について以前に書いたが、ポランスキー監督はこの3年後にハリウッドで"ホラー映画の傑作"と今日呼ばれている「ローズマリーの赤ちゃん」を撮った。

僕は「ローズマリーの赤ちゃん」をホラー映画ではなくスリラーだと感じているが、こうした分類に大した意味はない。サイコ系であることは確かだ。本作は公開の前年に発表された同名の小説が原作である。
舞台は1965年のニューヨークだ。売れない俳優とその妻ローズマリー(ミア・ファロー)がとあるマンションの一室に越してくる。ローズマリーは地下のランドリー室でテリーという若い女に会うのだが、すぐ後に墜死してしまう。テリーはローズマリーと同じ階に住むお節介な老夫婦の部屋に居候していた。ローズマリーは老婦人から"タニスの根"が入っているというアクセサリーを受け取る。それはテリーが身につけていたものと同じだった。ある日、老婦人からもらったチョコレートムースを食べたローズマリーは悪夢を見る。悪魔のような化け物に夢の中で犯される。目が覚めると、夫が無意識のローズマリーを抱いたと告白する。やがてローズマリーは妊娠するのだが、かかりつけの医師を変えたり、飲み物が気になったり、どんどん偏執病(paranoia)の様相を呈してくる。やれ悪魔の儀式だ、やれ陰謀だと騒ぐローズマリーはついに自宅で出産するのだが、医師と夫から死産だったと告げられる。鎮静剤を注射され、目を覚ましたローズマリーがクローゼットの奥から隣の老夫婦の部屋へ侵入してみると、そこには医師から夫まで登場人物たちが勢揃いしている。ゆりかごに逆十字が架けられ、赤ちゃんが寝ているのだが、ローズマリーは赤子を見るなりその目がおかしいと仰天する。医師や夫が、ローズマリーは悪魔の子を本当に産んだのだと説明するーー。
この映画はテーマなど多くの面で「反撥」のリメイクと言っていい作品だ。ハリウッドでもこのテーマで行こうというポランスキー監督の自己紹介だろう。要するに"正気とはどういうことか、狂気とは狂人だけのものではない"という、ナチスなどの議論にも必ず付いてくる sanity (健全/正気)を探る映画だ。
この映画をポップコーン感覚で観れば、ローズマリーがどんどんマタニティブルーになって、ちょっと気が変になって、あれ、本当に悪魔の子を宿したの、えー、こわーい、という作品である。それは"あらすじ"であって、本筋ではない。むしろ、あらすじが本筋となっている映画や小説はだいたい大したものではない。
ポランスキー監督が本作でじっと見つめているのは、妊娠するかどうか、この痛みの原因は何なのか、隣人は悪魔崇拝者なのか、担当医が陰謀を企んでいるのではないか、この栄養ドリンクには毒が入っているのではないかーー、などと、次々と何かにとらわれては疑心暗鬼になり、しかしすぐに他のことを気にかける、という移り気なサイクルだ。ところが、まさにこのサイクルこそ、観客にとっての日常ではないのか、という問いをポランスキー監督は投げかけている。
分かりやすい例なんていくらでもある。ここ数年の間に人々が話題にしたり、気にしていたことを今でも皆は気にしているだろうか。ネットかどこかで拾ってきた本人なりの勝手な結論に見合う"データ"や"学説"に飛びつき、それを真実だと信じて他人に押し付けるーー、身に覚えのある方がほとんどではないだろうか。あっさり言えば、学がないからこういうことになるのだ。きちんと学問を修めた者は「データなんかいくらでも結論に合わせて抽出できる」「みんなが言うことはほぼ間違い」ということを知っている。株価の大暴落の直前までプロたちは全米の住宅マーケットほど堅調なものはないと言い張っていたことを思い出してもいい。もっともらしいことと、真実であることは全く次元が異なる。
あれこれとローズマリーが"疑う"姿勢は健全そのものなのだが、結論を真実だと決め込んでしまうところ、つまり、もっともらしいことを真実だと信じたことがローズマリーをさらなる窮地に追い込んだ。「反撥」では主人公が明らかに狂っていく一方で、その周囲の者たち、すなわち観客が健全だと言えるのか、という問題が出されていたが、「ローズマリーの赤ちゃん」ではパラノイアらしきローズマリーを描きながら、あなたもローズマリーではないですか、という問いになっている。
本作のラストに関しては、鎮静剤を打った後のシーンなので、僕は悪夢のシーケンスだと思っている。ローズマリーはおそらく死産だっただろうし、エンドクレジットが流れている頃にローズマリーは悪夢から目が覚めるだろう。その時にローズマリーはテリーになるのかもしれない。だからこそ、映画の序盤で唐突にテリーが飛び降り自殺をするシーンが挿入されていると思う。
アンチキリストや悪魔崇拝のような、いかにもホラー映画という悪夢がラストシーンだったことによって、多くの観客はこのシーンを"真実"だと信じ、この映画のそれまでのシーケンスを振り返って、"ああ、やっぱりローズマリーはハメられていたのね"と納得するわけだが、そういう姿勢こそがローズマリーではないですか、ということだ。
僕はこういうポランスキー監督の抱えている、正気をめぐる問題意識は好きだ。昔からずっと僕は周囲の人の正気を疑っていたし、それはコロナ騒動で顕在化したと思う。ほとんどの人はローズマリーだ。ポランスキー監督の母親を奪ったものもまた"正気"だったのだ。だから人は怖いのだ。

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