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僕らはみんなイカれている / 「サイコ」
たとえば、明らかに精神病と思しき人物が、あなたの友人とコーヒーを飲んだとする。友人はその人物について特におかしなところを感じなかったと言ったとする。すると、あなたはこう考えるだろう、コーヒーを飲む程度の短時間なら、あいつのおかしな人格は分からないだろう、と。「キング・オブ・コメディ」におけるルパートだって、多くの人たちと普通に会話をしている。つまり、精神を病んでいる(脳の機能が正常ではない)人物の大多数は、誰の目にも明白な"病人"として生活しているわけではない。奇声をあげたり、包丁を振り回すことだけが狂気なのではなく、狂気は日常のなかに溶け込んでいる。
ヒッチコック監督の1960年の映画「サイコ」は、誤解されやすい作品だ。ノーマン・ベイツが解離性同一性障害(多重人格)であれ精神分裂病であれ、映画の観客はノーマンがモーテルに来たマリオンや探偵アーボガストとおしゃべりしているところを見ている。しかし一方、女装して刃物を相手に突き立てるところも目撃している。こうした唐突な犯行が人格障害によるものだという、分かりやすい"結論"は、あくまでも劇中に登場した精神科医の言い分に過ぎず、ヒッチコック監督が観客に対して、そのように映画の筋書きを把握することもできるよ、と示しただけだ。
これは映画なので多少の"思わせぶり"はあるものの、ノーマンはあくまでもモーテルの管理をする"サイコには見えない"男として描かれている。この映画を最後まで観てから、あるいは事前にあらすじなどの知識がある状態で「ほら、ノーマンはおかしな奴だ」と言っても意味がない。ヒッチコック監督の主旨は、ある人の脳の機能が正常ではない(精神が異常)であっても、多くの人は深い付き合いをするわけではないのでそのことに気付かない、ということだ。また同時に、街中には健常者とサイコの2種類がいるというわけではなく、ちょっと話をした程度では"サイコに見えない"ことが大半なのだから、われわれはみんなサイコだけど健常に振る舞っているだけ、とも言えるじゃないか、という視線がある。だから劇中ではしつこいほどに鏡とシルエットが映し出されていた。ノーマンをサイコ野郎だと見つめているあなたも、サイコな心を持つシルエットのようなもの、という題名だ。
ベイツの邸宅の三層構造は超自我・自我・イドだなんてフロイトの説を持ち出してくる解釈もあるくらい、映画はどう受け取っても自由だが、「サイコ」で描かれたことは、母親の遺体と同居する男がマリオンと探偵を刺殺した、というだけの話である。これをサスペンスとして仕上げて、物語の最後に精神科医らしき人物によって、あたかもそれが真実であるかのようにもっともらしい"説明"を言わせたものだから、サイコ野郎の狼藉を健常者の観客が見るという単細胞な構図として理解されてしまった。あれは説明でも診断でもなく、ただの台詞だということを見落としている人が多すぎる。本作はサイコ系の金字塔などと言われているが、ヒッチコック監督は「僕たちはみんなサイコなのかもよ、だってノーマンみたいな犯行を犯さない限り、お互いにそのことに気付かないだろ」という、キリスト教の価値観に反するようなスキャンダラスなことを伝えようとしている。
こうしたモチーフは本作の2年前の「めまい」でも扱われていた。
ヒッチコック監督は"正気"なんてものを信じていなかったと思う。みんな狂っているじゃないか、という価値観の持ち主だった。だから僕は好きだ。