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【考えるヒント】 批判と書いてコメディと読む / ジャック・タチ

フランスの戦後を代表する映画人といえば、ジャック・タチだろう。パリでヌーヴェルヴァーグだかハンバーグが流行する前に、タチは"ユロ氏"(Monsieur Hulot/ムッシュ・ユロ)というキャラクターを生み出して自ら演じ、かつてのサイレント映画を彷彿とさせる新たなコメディを確立した。ユロ氏を知らない方には、ローワン・アトキンソンの「Mr.ビーン」の元ネタ、と言えば良いのかもしれない。タチがユロ氏を演じた「ぼくの伯父さんの休暇」「ぼくの伯父さん」「プレイタイム」「トラフィック」の4作を見たことがない人でも、「ぼくの伯父さん」で使用されている曲は耳にしたことがあるだろう。

さて、タチがユロ氏というキャラクターによって風刺していたものは"近代"だった。モダニズムという風潮によって人々が世の中からまるで除け者のようにされているのではないか、ということを提示するために、タチはオーバーコートを着てパイプをいつも咥え、帽子を被ってよろめくように歩くお人好しのユロ氏となった。自動化された機械や技術をうまく扱えず、パリの街中で取り残されているようなユロ氏の姿はもちろんチャールズ・チャップリンのリミックスである。しかし、ユロ氏はチャップリンのように器用ではなく、様々のトラブルに巻き込まれて困り果ててしまう人物として描かれている。それは、タチの主眼がユロ氏というマヌケの造形ではなく、技術やそれに付随する新たな習慣などによって人が奇妙な行動を強いられている世の中になっていないか、と観客に問いかけることだからだ。これは古代ギリシャの頃から問題とされてきたテーマであり、マルクスの疎外(Entfremdung)という議論も同根である。要するに、世の中とは人が生活しているところであるにもかかわらず、その世の中はまるで人を置き去りにするように変容しているのではないか、つまり人は自ら置いてけぼりになるよう世の中にはたらきかけていないか、ということだ。チャップリンの喜劇はあくまでも技術のなかで繰り広げられるドタバタ劇であるのに対し、タチはユロ氏をチャップリンよりも"浮世離れ"させ、技術や流行そのものの奇妙さを描くことを目指している。そのためにユロ氏を登場させ、観客に対して"お前らイカれてるよ"というメッセージが伝わりやすくしているのだ。
ピアノやアコーディオンの音が響き、瀟洒なパリの街中を歩くユロ氏によって、どこか"オシャレ"な印象を抱く白人コンプレックスの日本人が多いようだが、ジャック・タチはユロ氏を通して"モダン"であることを痛烈に皮肉っている。だから「ぼくの伯父さん」において、物語の舞台となるモダン建築の周辺の家はユロ氏の自宅も含めてどれも古びた昔ながらの家屋なのだ。

アルペル氏の邸宅

「ぼくの伯父さん」においてアルペル氏の邸宅を訪れる人たちは、皆どこかロボットのように動き、工員や配達員のような労働者階級の人たちと対比させるように撮影されている。会話はまるで噛み合っておらず、本来であれば奇妙な存在であるはずの無職のユロ氏が"人間らしい"人物として映る。これがタチの狙いである。前回の記事で取り上げた「大いなる幻影」では貴族と平民という階級が重要なテーマだったが、こうして戦後になってみれば、金持ちと労働者という階級の差が大きくなり、そしてその資本をもたらすものが劇中で描写されていた奇妙な技術すなわちモダンであることなのだ。だからタチはアルペル氏をはじめ金持ちとして登場させた人物の行動があたかも"自動化"されたもののように表現している。そうした大人ではない子どものジェラールにとっては、ぼくの両親(mes parents)ではなく、ぼくの伯父さん(mon oncle)の方が好きだし、ユロ氏のような人物が奇妙に見えてしまう世情について考えてみてくれ、という映画である。
これはセンスあるジャック・タチだからこそ実現できた風刺である。フランソワ・トリュフォー監督はタチの才能を早くから見出していたという。ヌーヴェルヴァーグが既存の手法の否定であったように、タチは一見するとコミカルなユロ氏を通じて当時のフランス人を痛烈に批判していた。タチの映画はオシャレなコメディ、と感じる方がどうやら多いようだが、それは手製の肉じゃがの感想を訊かれて「肉じゃがの味がする」と答えるようなものだ。

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