"きのこ"はどこまで炒めるか
今日は何を食べよう?
そんなことを自問自答しながら、気付いたら同じような物を食べているのが、一人暮らしでの自炊あるある、な気がする。
僕は毎食自炊派であるため、その都度献立を頭のなかで考えるのだが、大まかなジャンルは大体同じような物。
お昼はパスタ、夜は鶏胸肉を使ったご飯に合いそうな物。というのが僕の自炊固定メンバーだ。
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そんな自炊生活において、きのこの存在は大きな物である。安く手に入るのも魅力だが、どんな料理でも使うことができるのが、彼ら、きのこのすごいところだ。
イタリアンにしても、和食にしても、中華にしても、彼らは任せられた仕事をきっちりこなしてくれる。
とにかくオールマイティーな姿に、僕は少し尊敬の念を抱いているかもしれない。どんな場所に投入しても、しっかりと結果を出してくれるのだから。
だからこそ、きのこ氏には非常にお世話になっている。
近くのスーパー「西友」で、安くて大きな、しめじや舞茸、エリンギなどをたくさん買ってきては、全てをミックスして冷凍しておく。
冷凍庫の中はきのこだけでなく、同じようにポーションしておいた様々な野菜が、ジップロック的なものに包まれながら、ギュウギュウに押し込まれている。
その中でもきのこは、一番指名の多い食材だろう。心の通ったキャバ嬢なみに指名してしまっている節がある。とはいえ、キャバクラへは一度も行ったことがない。
キャバクラに行って、きのこのようなオールマイティーな女性がいたら、付いてもらう事をリピートしてしまうんだと思う。
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そんなきのこは、炒め方にコツがあったりもする。
僕たちが思っている以上にきのこは、しっかりと焼き色をつけるぐらいの方が美味しく食べれるということだ。
このことに関しては、昔やっていたイタリアンのバイト先で、星付きのレストランや一流ホテルのキッチンで修行を積まれた先輩に教わった。
「もう、焦げてんじゃん!ってぐらい炒めた方が、香り引き立っておいしんだよ、きのこってのは」
先輩料理人にボッコボコにされながら腕を磨くのが当たり前の、ゴッリゴリの体育会系な場所でもあるという”キッチン”の世界。
そんな場所を潜り抜けてきた先輩が、優しく教えてくださったこのアドバイスが、いつもきのこを炒めるときに思い出される。
もちろん、完璧に焦がすぐらいまで行ってしまってはアウトだけど、きのこの実が結構縮こまってしまうくらい、しっかりと焦げ目をつけることが大切だ。
だからこそ、この絶妙な”間”を見つけ出すのは難しい。つまり、”少し狐色のキノコ”と”完全に焦げたキノコ”のちょうど間を攻めないと美味しくないわけだ。
これがなかなか難しい。少し火を入れ過ぎた!と思ったタイミングで火から外しても、余熱でしっかりと火が入ってしまうこともある。
逆に、軽い狐色くらいで外すと、食べたときの感触がイマイチだったり、香りが十分にでない。とにかく加減が難しいわけだ。
だが、この”加減”も人生そのものにも似ているようでなんだか面白いと、ふと思うことがある。じっと待つことが大切だけど、待ち過ぎたが故、もうダメになってしまうことがある。
特に、僕の性格なんかは”待つ”ということが難しい。ある程度形になっているからいいだろう!とそこで終えてしまうと、本来の旨味が引き出せなくなってしまう。
だからこそ、ちょうど良い加減を見極めることが、キノコにおいても人生においても大切だ。
日々の暮らしの中にある、こういった現象と人生そのものの因果関係みたいなものは、ほんとうまくできているよなとも思う。
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こうして学べることはきのこだけでない。
恋愛なんかも顕著な気がする。焦って気持ちを伝えてもダメなわけで、逆に気持ちを伝えないことで、相手が興醒めしてしまうこともある。
何事においてもタイミングはあるんだと再確認した、きのこ炒めであった。
炒めなさ過ぎず、炒め過ぎない人生を、焦らず求めていきたい。