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down the river 最終章〜暴虐の記憶〜

尾田の住まいは小さなワンルームのアパートだ。
その部屋からユウの唸り声が聞こえてくる。

「むぅぅぉムム!!むぅ!むぅう!」

丸めたタオルを口に噛んだユウが、身体をのけ反らせ唸り声を上げている。

「ふぅ…気持ち悪ッ…。まだなんか破片だか石ころだかめり込んでるな…。後ちょっと頑張れ…。」

ユウの足元でピンセットを手にした尾田が額に玉のような汗を浮かべている。
そんな尾田の言葉にユウは泣きながら首を横に振る。

「はぁ…ユウよ、嫌だって言ったってこの傷を放っておく訳にはいかんだろ。俺は医者じゃないから知らんけどこのまま放っとく訳にはいかない事くらいはなんとなくわかる。全部取り除いたら、オキシドールぶっかけてとりあえず終わりだ。さぁ、歯を食いしばれよ。」

ユウは目を力いっぱい閉じると再び唸り声を上げた。
尾田はユウの足に食い込んだ破片を取り除き始めた。

「うぅゴォおむむむ!!」

「後ちょっと…ちょっとだ…。」

ユウの唸り声数分続いた後、尾田は大きく息を吐いた。

「よし、終わり。後はこれで…と…」

尾田は小瓶に入ったオキシドールをユウの足裏にドボドボとかけた。

「ぐぅう…!ウッ!」

ユウは最後だと言わんばかりにタオルを思い切り噛み締め、痛みを堪えた。
そして唸り声が止むと、ユウの口からタオルがポトリと落ちた。

「タハハ…すいません…何から何まで…」

「本当だよ…まったく…。」

尾田は手際が良いとはいえない手付きでユウの足に当て物をして包帯を巻いている。

「落ち着いたら病院に連れて行くからさ。」

「…。」

「何黙ってんだ?ん?」

「尾田さん…今何時です?」

「9時過ぎたところだよ。それがどうした?」

「尾田さん…図々しいのはわかってるんですけど最後のお願…」

「断る。この傷をこのままにしてこれから何かをしようなんて考えるんじゃない。」

「お、尾田さん…」

「今日は泊めてやる。明日午前中には病院に連れて行く。いいな?よし…と。下手くそだがまぁ応急処置としては上出来だろ。」

尾田は包帯を不細工に巻き終えると、立ち上がり、照明が点いていないキッチンの冷蔵庫へと向かった。
そしてビールがぎっしりと並べられた冷蔵庫を開けると、その灯りが尾田の顔を照らした。
尾田はふぅとため息を深くつくと、中から2リットルのペットボトルに入った水を取り出し、おもむろにキャップを開き、勢いよく飲み始めた。
ゴボゴボと水が尾田の体内に流れていく音が部屋に響き渡る。

「飲まない…んですね…。」

ユウは頭だけ起こし、自分の足の間に見える尾田に問いかけた。

「水飲んでんだけど。何言ってんだ?痛みで頭おかしくなったか?」

「いや、そういう事じゃなくて…」

「どういう事だよ。意味がわからんな。」

尾田はペットボトルの蓋を閉めると冷蔵庫に押し込んだ。

「ビール…飲まないのかなって…。」

「飲みてぇさ。こんな事に付き合わされたんだ。やけ酒したいとこだよ。」

尾田は不機嫌そうにそこら中の物を蹴飛ばしてユウの元へと戻って来た。

「な、な…なんで飲まないんです?」

「…。」

「尾田さん…。お願いが…」

「断ると言ったはずだ。」

「尾田さん。行かなきゃいけないんです。俺は今日で全部終わらせるんです。一つはこんな形になっちゃったけど、もう一つ、俺には終わらせなきゃいけない事があるんです。」

「お前が…」

「…?」

「ユウ、お前がいなくなる様な…このまま消えてしまう様な気がするんだ…。」

尾田は小声で呟いた。
腰を降ろした尾田は背中を丸めて、大きな身体をたたんだ。

「ユウよ、お前が何をどう終わらせたいのかわからないが…俺は迷ってる。」

「な、何をです?なんで尾田さんが悩むんです?」

「あくまでもお前の人生…だから俺にとって無関係という事でいいはずなんだ。でもわからない。そこに俺という力が加わった事でお前の人生を大きく揺さぶってしてしまう、もしくは俺の人生をも揺さぶってしまう…もし、そうだとしたら…ただの傍観者というものには俺はなりきれない。」

「タハハ…なんか…俺が何をしようとしてるか…そしてその結末も見た様な言い方ですね…。」

「…。」

尾田は無言で煙草を取り出し火を点けた。

「尾田さんに俺の人生の結末に責任はありませんよ?」

「わかった様な口を聞くな、ガキが…。」

尾田の目に涙が浮いている。

「尾田さん…ビール飲まなかったのも…俺のお願いを聞こうかと少しでも聞こうと思ったからでしょ?違います?」

「…。」

「尾田さん、俺の母校…〇〇中学校に連れてって下さい…お願いします…タハハ…やっと最後まで言わせてくれましたね…ハハ…。」

「…いいだろう…ただ条件付きだ。」

「何でしょう。尾田さんがその場に残るのは駄目ですよ?俺自身の問題ですから。」

「勝手に話を進めるなよ。そんなんじゃない。電話をしろ。」

「え?」

「全てにケリをつけたら俺に連絡をよこせ。いいな?迎えに行く。」

「そんな事でいいんですか?」

「あぁ。そして病院に連れて行く。いいな?」

「はい…ありがとうございます…。」

「必ずだぞ?」

「はい。」

尾田は覚悟を決めた、何かを決心しているユウの顔を見ると諦めた様に下を向き煙草を消した。

『ユウはきっと連絡をしてこない。俺には見えないどこかに消えるんだろう。多分、もうこの天才と会う事は無いな…。』

「立て。自分の力で。そして自分で歩くんだ。」

尾田は強い口調でユウに言うと、立ち上がり背を向けた。

「はい。」

ユウは身体を起こした。
膝を曲げてズタズタになった足の裏を床につける。
その瞬間ユウの顔がグニャリとひん曲がった。

『このままユウが立ち上がれば…俺はこいつを連れて行かなきゃいけないな…天国か地獄かわからないところにこいつを連れて行かなきゃいけねぇ。立つな。立つなよ…』

あまりの痛みにユウの身体は痙攣している。

『そのまま倒れるんだ…ユウ…。』

「ハァハァ…い、いでぇ…うぐぅ…あ…あ…」

ユウは右膝に右手をつくと、左手を軸に身体ひねり中腰の姿勢まで身体起こした。

「足の…あ…あ…足の裏って…す…凄いっスね…へ…へ…全体重を支えてるんですもん…」

身体を痙攣させたままユウは尾田の背中に向けて話しかけた。
返答は無い。

「あ…あ…あああ!あぁ!あぁ!!」

『あぁ…お別れだな…天才…』

ユウの悲鳴の様な声を背中で聞いた尾田は悟った。
そして尾田はその事実を確かめようとゆっくりとユウの方へ振り返った。

『立っちまった…か…天才…本当に…お別れだな…。』

「い、行くぞ。」

尾田は再び背を向けた。

「へへ…」 

ユウは痙攣しながら精一杯の引き攣った笑顔を作った。
噛み締めた下唇からはだらしなく出血しているが、その笑顔はあまりに悲しく、あまりに切ない、そして美しいものだった。
死者を見送る様な、又、愛するものから見送られる死者の様な安らかな笑顔だった。

・・・

『何を話すんだろう。俺に話し…ってなんだ?冷静になって考えてみたら何も予想がつかない…。』

助手席でユウは窓の外を眺めた。

「何か言ったか?」

ユウの心の声が聞こえたのか、運転席の尾田がユウに問いかけた。

「いえ…なんも…。」

「そっか…。」

尾田は煙草に火を点けた。
尾田らしくない、落ち着かない様子だ。
ハンドルに絡む指はタカタカと変拍子のリズムを刻んでいる。

「もうすぐ着くぞ。煙草…やるよ。持っていけ。このクサレライターもな。」

尾田はクシャクシャになって数本しか入っていない煙草の箱とガスが数ミリしか入っていないヤスリライターをユウに手渡した。

「あ、ありがとうございます…。」

ユウがお礼を言い終えたと同時に、ユウがかつて通っていた中学校の校門が見えてきた。

「ユウ…。またな。」

尾田は校門の真正面に車を停車すると、ユウの方を見ずにボソリと呟いた。

「れ、連絡します。必ず…。」

「あぁ。待ってるよ。ずっとな。」

尾田はこの時の事を今も覚えているという。
ユウの待ち受けている運命に自分が抗おうとしても、身体が勝手に動き、ユウの運命の渦に巻き込まれる様になってしまったというのだ。
この時尾田は悟った。

運命も進む道も取捨選択も全ては決まっている。抗う事は無駄に等しいという事、そして自分の関係する全ての物、者においてそれは当てはまるという事を。

「グギギ…グッ…う…」

ユウは助手席のドアを開け、身体を車から出した。
足を地に付けると再び襲ってくる激痛の中、出血している下唇を更に噛み締めて立ち上がった。

「じゃ、尾田さん、本当に色々ありがとうございました。ケリつけてきます。」

「あぁ…ドアを閉めるんだ。」

「はい。じゃ。」

ユウは車のドアを閉めて、校門の方を向いた。
尾田は目頭を1度人差し指で擦ると、アクセルを深く踏み、その場から消えていった。
ユウは尾田からもらった煙草の箱から煙草を取り出し、ヤスリライターを数回弾いて火を点けた。

「マルボロ…くっさいなぁ。」

ユウはフラフラと歩き、校門に飾られている学校名が刻まれた銘板まで辿り着いた。

「ここから…始まったんだよな…。」

ユウは銘板に人差し指でツツッと触れてみた。
その瞬間、ユウの背後で女性の声が聞こえた。

「時間…ルーズになったのね。もう少ししたら帰ろうと思ったとこよ?あなたが指定した時間よりかなり過ぎてるじゃない。」

ユウはビクッと身体を震わせ、ゆっくりと背後を睨んだ。

「そんな怖い顔しないで?ここに来たって事は手紙読んでくれたんだね?あの手紙…2枚目も読んでくれた?あの後うぅんと、…何日後か忘れたけどさ、泣きながら書いたの…悔しかった…辛かった…ねぇ…覚えてるよね?」

ユウ、私達のかわいい弟。
あの時のユウの気持ちは今もわからない。
なんで私を苦しめたのか本当にわからない。
哲哉のことかな。
私自身かな。
もしそうならごめんね。
あの時なんで私、ユウと戦わなかったんだろう。
証拠もないし圧倒的に私の方が人望もある。
何も見えなくなっていたんだろうな私。あの時のミルクティーの味、私は今も覚えてる。
美味しかった。冷たかった。
あんなに美味しいミルクティーは後にも先にも飲んだことないよ。
あの時の血の気が引いていく感覚、私は今も覚えてる。
気持ち良くも気持ち悪くもなんともいえないの。
ユウに犯されてるみたいで、ごめんね。気持ち良いとは言えないんだ。あの時私達は繋がってたんだね。ここじゃない、どこかでさ。なんで私気が付かなかったんだろうね。こうやって手紙書いてると、本当に後悔ばかりだね。後悔しか書いてないよね。勉強もした。
友達も作った。
彼氏もいた。
努力した。
我慢もした。
でも勝てなかった。
でも敵わなかった。悔しい。
悔しいよ。一緒に飲もう?
おいしいおいしいミルクティー。

「一緒に…飲みましょうよ。ユウ、新田優…。ねぇ?」

「あいにく…甘い紅茶は好きじゃないんだよな。神美沙…。」

缶入りのミルクティーをユウに差し出した声の主は美沙だった。
ガリガリに痩せてしまっている。
目のまわりは窪んで、眼窩がくっきりとその輪郭を前面に押し出している。
そしてその輪郭はどす黒く変色している。
髪は長いが結っておらず、真っ直ぐ下に伸びた黒髪は痩せてしまった身体とは違い、太く美しい輝きを放っている。
無地で黒い下着が丸見えになるほど生地が薄くなった白いTシャツにかなり細身で濃色のジーンズ、ボロボロのスニーカーという、中学校時代の美沙ではありえない程みすぼらしい出で立ちだ。

「ふぅ…」

ユウは煙草を思い切り吸い込み、思い切り煙を吐き出した。

「飲まないの?」

「好きじゃないと言ったはずだが?」

ユウは美沙を睨んだまま煙草を地面に叩き捨てた。

「フフフ…そう。」

美沙は病的な笑みを浮かべると、缶入りのミルクティーを足元に丁寧な手付きで置いた。
美沙が屈んだ時、膨らんだTシャツの胸元の奥に、痩せてしまった身体とは不釣り合いなほど豊かな乳房が波打っていた。
そしてそれはユウの目に否応なしに飛び込んでくる。
そして身体を起こした美沙は校門の上に置かれていた、紙袋を手にした。
美沙は紙袋の中に手を入れると、病的な笑みを加速させた。
笑みなのか、憤怒の表情なのか区別は最早出来ないくらい不気味に歪んでいる。
ユウは恐ろしさのあまり目を1度閉じて覚悟を決めた。
ユウは深く息を吐くと目を開いた。

「フン…だろうな。そうだろうな。俺ならそうするさ。」

ユウは諦めた様に言った。
そして美沙の方へと目線を向けた。
その目線の先は、校門の上に灯る白熱灯の光を浴びて嫌な輝きを放っている小ぶりな三徳包丁だった。
まるで美沙の憎しみがすべてその刃に宿っているかの様な輝きだ。

「え?あんまり驚いてくれないのね?」

「どうせそんな事かとは思ってたからさ。さぁ…色々、思うところもあんだろ?全部その思いとか…その…それに乗っけてさ…」

ユウは美沙が握っている包丁を指差した。
そしてもう一度深呼吸をしてから次の言葉を吐き出した。

「さっさと殺せよ。神美沙。」

「ウッフフフ…」

「何がおかしい?どうせ復讐しに来たんだろ?だったら色々言わねえでとっとと殺れよ。俺は捨てるもんなんかなんも無い。遠慮はいらない。さっさと…」

「勝手に盛り上がってるみたいだけどあなたは殺さないわ?残念ね。」

「あ?なんだ?それとも何か?お前が殺されに来たのか?」

「あなたは殺さない、いや、殺してあげないわ?フフッ…。そしてあなたは私を殺せないわ?」

醜く歪んだ美沙の顔をユウは直視出来ない。

「じ、じゃあその手に持ってるのは何だよ。なんの為に持ってきたんだ?」

ユウは美沙を更に鋭い目で睨み付けた。
いや、正確に言えば美沙の方を睨み付けた。
まだユウは美沙の顔を直視出来ないのだ。
そうこうしていると美沙はせせら笑いながらその三徳包丁をユウの足元に放り投げた。
乾いた音にユウは身体をビクつかせる。

「あなたに近況報告しようと思ってさ。フフッ…。誰かを殺したくなったらソレ使って?ね?」

「近況…報告?」

「そうね、何からいこうかな…まず迫島くん…なんだけどさ、今、音楽で食べてるみたいよ?」

「は?」

「プロ…ミュージシャンってこと。凄いよね?フフフ…」

ユウの心臓が破裂しそうな程のビートを刻み始めた。

『俺だけじゃねぇ…ヒデが…Blue bowだけじゃねぇ…尾田さんも加賀美さんもみんな追い越したって事か…?ヒデ…ヒデ…ヒデ!!』

「迫島くん、来月ソロデビューだって。凄〜い!アハハッ!次…浦野先生…無事にご結婚されたらしいわよ?あなた浦野先生と関係があったらしいじゃない!?アハハハ!それと!ご懐妊だって!!残念ね!ユウ!アハハハ!まだまだあるわよ?あ、た、し、の元カレ、哲哉くん、親戚の会社継ぐんだって!その為に一生懸命勉強してるみたいよ!?未来の社長さんってわけ!ハハハハ!しかも結構大きい会社らしいわよ!!ハハハ!ユウ!置いていかれたね!アハハハ!」

ユウの視界が歪んでいく。

『えへぇえ?どして?何で?俺は全部手に入れて?え?どして?なんで俺はなんにも手に入れてないの?あはれぇ?』

「アひゅーアひゅー…ハァハァ…」

ユウの呼吸が妙なサウンドを奏で始めた。
ユウはパニックのあまり尾田からもらったマルボロを全て箱から出すと5本まとめて口に咥えて火を点けた。

「ゲホ!ふしゅ〜ふしゅ〜ゲホ!カハッ!」

「さぁてと次よ?準備はいいかしら?ユウ?」

煙草にむせているユウに美沙は口の端に涎を溜めて追撃をする。

「あ、あん…だめよ…美沙ぁ…ウフッうん…。うん…あん…。」

ユウは崩壊した。
男のユウは崩壊した。
男から女になり、女としての自分をキープする事で何とか自我を保っている。
しかし女のユウも崩壊寸前だ。
そしてトドメを刺す様に美沙は禁断の名前を出した。

「敬人」

「いやァ〜ん…いやぁ〜ん…いや…それ…だめ…だめ…」

その名前を聞いて艶めかしい喘ぎ声を発しながら女のユウも崩壊した。
もう正常な意識を保つ事は出来ない。
そして間もなく完全崩壊の瞬間を迎える。

「あなたの大好きだった敬人くん、結婚するの。」

「えへぇ?」

「お・ん・な・の・こ・と!ハハハハ!」

「いや…やめて…ねぇ…いやぁ…」

「やめないわよ?ここからが面白いのよ?ユウ。聞いて?」

ドクン…ドクン…ドクン…

崩壊のカウントダウンをユウの心臓の鼓動が奏で始める。

・・・

「お嫁さんは…なんとね!」

『ヤメロ…』

「何とね?ウフッ!」

『ヤメテクレ!』

「…く…」

『止めろおぉ!』

「く………」

・・・

「自分で死ね!ユウ!アハ!ハハハハ!」

・・・

「トドメだ!ユウ!アハ!気持ちいい!」

・・・

「プロデビューした迫島くんのバンドのボーカリストはね?アハ!」

『あぁ…』

「実はね…アハハハ!」

『俺は…』

「た…………」

・・・

「そしてね?あ・た・しはね?」

『何を…勘違いしてたんだろう…』

「あたしも結婚すんの…アハ!」

『俺は天才でも何でもない…』

「相手はね…?聞いてる?ユウ?」

『全ては幻…だったのか…』

「相手は…」

・・・

「さぁ!ユウ!誰を殺すの!?それを持ちなさい!その包丁はあなたにあげる!誰でもいいわ!?誰でも!そう!目の前にいる…私…で…も…」

・・・

ゴリゴリ…

プツン…

普通になりたかった…

女になれ…ユウ…

さぁ…来なよ…タカちゃん…

上がれよ…ユウ…

俺は…?

いったい誰なんですか?

尾田さん…

俺は

男?

女?

尾田さん…

俺って

何?






「タカちゃあああああああああん!!」

「キャハハハ!やっぱ!?やっぱそこいく!?ギャハハァ!!ホラホラ持っていって!?その包丁はあたしからのプレゼント!敬人を殺す事にしたんだ!?ホラ持っていきなよ!」

ユウは敬人の名を叫ぶと足元に投げ捨てられた三徳包丁を手に取ると、その手で美沙を殴り飛ばした。
ペキンと何かが割れる音がユウの腕を通して脳へと信号が伝わるのとほぼ同タイミングで美沙は吹き飛び、倒れ込んだ。

「タカちゃああぁアァん!!うわはぁあ!」

ユウは足の痛みを忘れて走った。
ひたすら走った。

「ヒィ…ヒィ…ヒィ…」

ユウは3年間通い続けた通学路をひたすら走った。
ユウにとって迫島がプロミュージシャンとして活躍している事も、その迫島と組んでいるボーカリストも、哲哉が会社を継ぐ事も、浦野の結婚、妊娠もどうでもいい事だった。
美沙の結婚相手もどうでもいい。

「ふざけるなぁあ!敬人!お前が一番最初に普通の幸せを手に入れるなんて!!許される訳が無い!!お前が!栗栖彩子と!栗栖彩子と!普通の幸せを築き上げるなんて!!」

見慣れた光景だ。
普通の家庭では夕食を取り終え、団らんの時を過ごしたり、入浴したりしている時間だ。
そんな光景を尻目に、ユウは涙を流して走り続けた。

「お前が!お前が一番普通でどうする!!」

ユウは涙でグチャグチャになった顔の前で包丁を構えた。
涙で歪んだ視界の前には「有田」の表札がある。

「出てこい!敬人ぉお!!敬人!お前が!普通でどうする!敬人!敬人ぉおおお!!」 

視界が赤く染まっていく。
何の赤だろう。
何の…
何の…

「ユウ…私の…勝ちよ…ブフッ…エッ!ウッ…ウエェッ…」

校門で倒れている美沙がニヤニヤして、口からを血を流しながら勝利宣言をしていた。

ユウの耳には何かの音と何かの声が聞こえる。

・・・

「尾田さんに…」

「尾田さん…」

「連絡しなきゃ…」

ユウは身体が動かなくなってしまった。

重たい。
痛い。
うるさい。
俺は全てを手に入れるんだ。

俺は全てを…

『ユウ!上がれよ!』

「来るなァァ!!ユウ!止めろぉ!!」

『タカちゃん、大好きだよ!』

「敬人ォ!お前だけは!お前だけは許さない!」

記憶はここで途切れた。
ユウの元には永遠に普通はやって来ないだろう。
罪を背負い、罰を背負い、ただ、ただ、川を下り、海を目指すのみ。



※未成年者の飲酒、喫煙は法律で禁止されています。
本作品内での飲酒、喫煙シーンはストーリー進行上必要な表現であり、未成年者の飲酒、喫煙を助長するものではありません。

※いつもご覧いただきありがとうございます。down the river 最終章〜海へ〜は本日から6日以内に更新予定です。
申し訳ございませんが最終章は6日毎の更新とさせていただきます。
更新の際はインスタグラムのストーリーズでお知らせしています。是非チェック、イイね、フォローも併せてよろしくお願いします。
今後とも、本作品をよろしくお願いします。
次回最終回です。
お読みいただき本当にありがとうございました!














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