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「結果が全て」と言うけれど、"全て"って何ですか?

 2度目の復職後に書いています。

 体調不良に陥り、通院、休職、休養、リワーク通所、復職/社会復帰まで。
 復職後の生活での気づきを書いてます。たまに休職中のことを思い返したり、リワークでの学びも書きます。


 10月といえば日本の多くの会社は上半期が終わり、下半期が始まる季節。そんな時期に感じたことです。

自分で自分を追い詰める言葉

 私は自分に厳しい考え方をするタイプだと思います。"タイプだった" が適切かもしれないです。

 典型的に自分に自分で言ってしまうのが、
 「結果が全て」

  • 試験は合格しなければ意味がない

  • 目標は達成しなければ意味がない

 そんな価値判断だった。なぜなら、達成できなければ容赦なく上層部から追求されてきたから。

 なお、私が他者にこれを求めることはありません。メンバーは皆、頑張っている。過程にも意味がある。結果責任は私が受け止めればそれで良い。それが "私の普通" でした。

考えが内面に向くという気付き

 少し話が逸れます。
 以前、とても腹落ちできたことについて記事を書きました。通っていたリワークのストレスマネジメント講座で学んだことです。

 復職して数ヶ月が経ち、この内容を思い出しました。
 話を戻します。

 私の職場では、半年間、又は一年間で評価が下されます。"結果" というと一年間の区切りで何を達成できたか、が基準になっていました。

 私は、できた成果を書き出しつつも、できなかったことで自分を責めることが多い。そして「できなかったことを、できるように努力する」と考える。

 内向的な考え方は、他者でなく自分に目を向けるそうです。行き過ぎると自分で自分を攻撃してしまう。この状態に早く気が付いて、自分を攻撃しないようにしたい。反省で留めよう、と思った。

失敗して反省して成長する

 随分、過去の話になりますが。
 私はインターネット関連の資格試験 "CCIE" という認定試験で、たくさん不合格になりました。会社内ワースト2位のはず。

 "試験結果が全て" と考えれば、失敗続き。ダメ続き。

 だけど、社内ワースト2位の失敗経験は、私を大きく成長させてくれました。

 すぐ合格した方々は、一様にして技術的な知識が定着していない。私の場合、スラスラ出てくる。だって、失敗の数だけ繰り返し学んだから。結果的に、お客様から信頼頂ける。私の話す言葉を熱心に聞いてくれる。ダメ続きだったはずの結果が効果を発揮して、数年後に部門賞まで頂いた。

 少しずつ、それでも間違いなく成長して、その力を発揮している手応えを感じていきました。この期間、9年間。じわじわと。です。

「結果が全て」の"全て"ってなに?

 そして、今。

 復職したての私。約半年の成果がない。次の半年だって結果を残せそうにない。今はそう感じている。

 だけど、あまりにも見ている期間が短い。と気が付けた。

 短期的な結果がどうでも良いとは思わない。

 とはいえ「結果が全て」というには、短期間に目を向けすぎている自分に気がついた。

 以前、自分の成長を実感するのに 9年かかった。じわじわと成長を感じて確信に変わっていった、というのが適切かも知れない。

 そう思うと、復職して約半年間。この半年間だけで何かを判断するのは早過ぎる。この半年間が私の結果の全て、ではないな。
 と思い始めた。

「結果が全て」は誰が決めるか

 「結果が全て」と他者に言われるかも知れない。

 だけど、その結果は何をもって結果と言うのか。会社や上司からの直近の評価をもって言うのか。

 私は休職前まで、会社の価値観に合わせてきた。だけど、その価値観は自分で決めて良い。少なくとも、私の人生観に対する評価者は会社ではない。

 定期テストや入学試験、就職試験の結果。転職活動の結果。昇進の結果。

 これも大切。悔しい嬉しいと思って良い。だけど捉われ過ぎない方が健全。

 改めて「結果」って、いつ何を基準に判断するんだ?って思う。

 他者評価も大切。だけど、まず自分がどう感じているのか、を大切にしたい。

 それをもって「結果」について自分で評価できる人になりたい、と感じています。


勘違いはしないで

 どんな人にも相性が悪い人がいる。理不尽な人や場面がある。そんなケースも我慢だ、とは言っていません。

 アサーション権は誰にでも、平等にあるのです。嫌と言って良い。できない、分からない、と言っても良いのです。


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