自然主義者と理想主義者
自然主義と理想主義。
なんだかんだ言って人間のイデオロギーの違いはここに落ち着くような気がする。
僕はどちらかを捨てるくらいなら、その矛盾の間でたとえ引き裂かれたとしても、その境界の中に生きていきたいと思う。
自然主義者は優しい。文学における自然主義は、便所の蠅から人間の口臭まで、この世界の醜さを徹底的に暴き出す。哲学における自然主義は、この世界そのものの身も蓋もなさを白日の元に晒す。
でも、だからこそ、自然主義者は良い。人間の醜さを知り尽くしている。だから人間に優しい。世界の醜さを知り尽くしている。だから世界に対して寛容だ。自然主義者は世界に期待しない。だから世界に対して絶望することもない。
だが、もしこの世界に自然主義者しかいなかったら、どうなっていただろう? 発展も向上もなかったに違いない。ピタゴラスの狂信的な信念に突き動かされた知的発見の歴史も、ヴァーグナーの熱狂的な音楽も、存在していないだろう。自然主義者は、「AS IT IS(あるがまま)」を抱擁する。
一方で、理想主義者は熱い。文学における理想主義は、空想の中の恋人を天使に祭り上げ、そのために死ぬことすら厭わない。哲学における理想主義は、不可視のイデアに参入するための絶望的な挑戦を繰り返す。
でも、だからこそ、理想主義者は良い。恋人の欠点はどう頑張っても目に入らない。だから相手の中に、相手を超えたものを見る。不可能に満ちたこの世界のルールを無視する。だから不可能を可能にする。
だが、もしこの世界に理想主義者しかいなかったら、どうなっていただろう? 自然主義者シェイクスピアが滑稽に描き出す、恋に燃える人間が招く悲劇を見れば、その結果は一目瞭然だ。理想が「燃え尽きた」人間は、過度な絶望に陥る。
人間の醜さを知らない理想主義者が、この世界の仕組みを作ったら、大惨事を招くことは、共産主義という壮大な実験が証明した。彼らは人間が持つ「嫉妬」というどうしようもない感情に対して無知だったからこそ、全ての人間を平等にすれば理想郷が訪れると信じ込んだ。だが実際には、平等は嫉妬を加速させた。彼らは理想に燃えていたがためにむしろ、マンデヴィルやアダム・スミスが見抜いた「人間のどうしようもない利己主義」を善用するための資本主義の自然主義的な狡知に思い至らなかったのだ!
自然主義者と理想主義者は、世界にも、そして一人の人間の中にも、同時に存在すべきだ。両者の間の張り裂けるような緊張の中にこそ、本当の真実がある。