Gutsヒロのスイーツ・ストーリー:希望と夢へ走り出した話。
Gutsヒロです。連休ということで時間があって、ぼやーっと過去を振り返ることがあって、ぼやきというか、独り言というか、なんとなく綴らせていただきます。
私のようなマイナスからのスタートでも、自分や他の誰かを幸せにすることができたストーリーをお伝えして、希望や夢を届けることができれば幸いです。
良いことがあって、幸せであって、ハッピーを求めて、そんな日々を人は求めていると思います。
でも、一歩先には汚い泥沼の落とし穴があって一歩進まなくては行けない運命もあります。
でも、失敗や悔しいことがあって笑われてバカにさせても2〜3年も経てば自分以外の誰もそんなことを覚えている人はいないことが多いでしょう。
だから、失敗を恐れない。失敗したからこそ大事な経験となり、「本物」の世界を知ることができるのです。
昔の偉大な人達は、沢山の失敗をしたから、大きな成功をしていると聞きます。
私は、失敗したり、価値のないことをしたりするときは、いつも「そこにはチャンスがある」「天は見てる!」と思い行動しています。
それは、いつ、どこで、どんな場面で役に立つかわからないからです。もしかすると人生を変える一歩かもしれないから、いつも真摯に向き合って自分のためだと思って行動していきました。
でも、そんな綺麗事だけが全てではありません。
時には、体も心も壊して精神科の病院に入院したこともあります。
一人、海に行って情けないほど大泣きした時もありました。
幸せになるということは、築いては壊して、築いては壊して、を繰り返して、その先に本当の幸せが見つかるものだと思います。近いようで実は遠いものでなかなか掴み取ることは難しいのかもしれません。
そのような日々を乗り越えるためには、いつもどのような時でも、正直な気持ちになって誠実な心を持ち続けることだと思います。
時は、私が生まれる時、母から聞かされたのは、体重が1000gも満たない未熟児で命の危機があるとのことでした。母のお腹では成長することができず、更に早く生まれてきてしまったようです。
でも、奇跡的に私は命を続けることができました。
しかし、成長するにつれて、普通の子とは違う行動をしてしまったり、知能が遅かったりと支障があったそうです。
物心がついて小学生になった私は、集団行動に馴染めず、学校生活がストレスで腹痛を起こしたり、緊張でゲロを吐いたりして、途中下校をすることが多かったのです。
小学5年生の時にクラス替えがありました。ようやく慣れてきたクラスだった4年生だったのに、5年生のクラス替えは、私の心が余計に小さくなってしまいました。
また、5年生ということもありデリケートだったりナイーブだったりと神経質で繊細になってしまい、あるきっかけで不登校になってしまいます。
それは、ある女の子から私に、
「鼻の下にハナクソついてるよ!」
と言われたのでした。私は恥ずかしくて、すぐにトイレの鏡で顔を見て確認をしました。
しかし、ハナクソなんて1つもついていないのです。
私は、悪口を言った女の子に言いました。
「ハナクソなんてないじゃないか!」
そうしたら、その女の子はニヤニヤしながら私に言いました。
「君の鼻の下にあるホクロが鼻くそみたいじゃん!!」
確かに、私の鼻の下には2つのホクロがありました。でも、それがハナクソという汚いものに見えてしまうことにとても恥ずかしい思いをしました。
それから多くのクラスメイトから、
「ハナクソ星人」
「ハナクソ野郎」
「ホクロがうつるから近づくな」
など言われるようになり、とうとう学校に行くのが恐怖で不登校になりました。
また不登校になって親は心配しますが、この事実を言うことすら恥ずかしくて布団にうずくまり、鏡を見るのも、顔を家族に見られるのも、外に出ることも怖くなってしまいました。
私は、鼻の下にある邪悪なホクロを無くそうとカッターを使って切り取ろうとしました。
しかし、プスっと刺した刃はとても痛くて、現実を変えることができなくて、血が出て、悔しくて、もう死んでしまいたいと思いました。
半年ぐらい経ってようやくホクロのことを親に言うことができました。
そして、ホクロを取ることになったのですが、手術で切って取ることも、レーザー治療でホクロを焼いて消すことがあることを分かりましたが、幼い私はどれも怖いと思いました。それでもホクロを取るために勇気を持ってレーザー治療に行きました。先生は一瞬だけ痛いかもしれないけどそんなに痛くないよ。と言われましたのでホッとしました。そして、目にガードのゴーグルをつけてレーザーをいざ打ってもらった・・・
バチンッ!
とても痛かったのです。打たれた瞬間、体が跳ね上がるほどのものでした。部屋には皮膚が焼けた匂いと煙が漂っていました。鼻の下のホクロからは血が噴き出していました。私はあまりの無情に涙をポロポロ流し、レーザー治療の思いのほかの痛みに耐えられず断念しました。そして、学校に行けない日々が続きました。私は、学校へ行くことを辞めて、普通の人間になることを諦めました。
それから、つまらない日々を過ごしました。同じゲームを何度も繰り返し、外に出るのは怖くて引きこもりになり、でも、母がたまにお菓子の材料などを買ってきてくれた時には、大好きだったお菓子作りや料理を没頭することになります。美味しく作れた時の、食べてくれた家族の笑顔が生き甲斐となりました。
そんな孤立した生活を送る私ですが、ある恩人のおかげで外に出ることができるようになりました。
それは、「桧山先生」の存在でした。
桧山先生は元は学校の先生で定年退職した、おじいちゃん先生でした。桧山先生は、退職後は不登校の生徒を支援する活動家でした。
桧山先生は、仕事が終わる夕方になると、必ず私の家に毎日来てくれました。
しかし、私は顔を見せることができず壁の向こう側にいます。そんな桧山先生は、壁の向こうから話しかけてくれて、私のコミュニケーション能力を徐々に回復してくれました。
そして、桧山先生はある時、私にお願いをするのです。
「ヒロ君、飯食いに行かないか?」
私は、外に出ることがまだ怖くて、そのお願いに無言の拒否をしました。でも、先生は月に1度ぐらいのペースで、
「ヒロ君、飯食いに行かないか?」
と言い続けてくれました。観念した私は、不登校になって初めて、外出することができました。
桧山先生の車の助席に乗り、お店に向かいます。でも、道中にすれ違う車に顔を見られることが怖くてうずくまっていたことを今でも覚えています。すれ違う車なんて一瞬のことですが、そのぐらい顔を見られることが怖かったのでした。
行ったお店は「へんこつうどん」でした。
もう何ヶ月も外に出ていなかった私は、緊張で固まっていました。桧山先生は、どれを食べようか?と話しかけてくれましたが、声を出す勇気もありませんでした。
何十分もかかり、ようやく決まったメニューが「素うどん」でした。桧山先生のお金で高いものを食べるのは遠慮もあったし、緊張もあって食欲がほとんどなかったからです。
でも、注文されて届いた「素うどん」がほっぺたが落ちるぐらい美味しかったのです。
外食ならではの整った味わいは、いつもの家の料理とは違う、格別な美味しさだったのです。
料理好きな私にとって、この時の思い出は人生で大きなことでした。
桧山先生との「へんこつうどん」の食事から私の人生は大きく変わりました。
1つは、外出ができるようになったこと。
2つは、趣味の料理が更にレベルアップしたことです。
外出できるようになって、桧山先生の提案で、「不登校の子が集まるサークル」に参加することになります。当時はなかったですが、今で言う「フリースクール」のようなものです。このサークルは、桧山先生が立案したサークルで、不登校の子が自由に過ごせる環境を提供するために作られたそうです。桧山先生は、時代の先駆者だったのです。私は、そのサークルに通って徐々に心を開くことができるようになりました。
そして、趣味の料理は、和洋中、洋菓子の更なる奥深い料理に挑戦する日々になりました。外出できるようになった私は、図書館で料理の本を借りて作っていきました。
でも、いつの日か「お店のような本物の料理」を作りたいと6年生の時に、「ラーメン」を作ることを企画します。貯金は全て使い、親や叔母にお金をもらい、本の通りに「動物出汁」「魚介出汁」「かえし」を作りました。麺も手打ちで作りましたが、手打ち麺で必要な「かんすい」と言うアルカリ性の液体がケースでしか買えず、納得いく麺は作れませんでしたが、全部の材料を人数分に分けると「1杯5000円」の究極のラーメンを作れました。
でも、豚骨や鶏ガラ、ホタテの貝柱や日高昆布などを使ったスープは、絶品な味わいで、家族や親戚など十数人に振る舞って私の企画したイベントは成功したのでした。
そんな生活送る日々でしたが、小学校でも徐々に私の支援がありました。もう、小学校では私が復帰することは不可能だと判断され、その対応として、日々の「授業内容のレポート」を生徒を通して私の家に届けると言うものでした。
私は、クラスメイトに顔を合わせることはできなかったのですが、おばあちゃんが毎日レポートを受け取ってくれました。話によると、クラスメイトの全員が順番に私の家に来ていたそうです。でも、私は既に小学校の授業にはついていけず、そのレポートは机の引き出しにしまって終わりでした。
季節が過ぎて、私の孤独な生活が当たり前になった頃の話です。
6年生の小学校を卒業する時期に、私の心はモヤモヤしていました。
かつては私を苦しめたクラスメイト。人として「普通」でいられなくされた憎しみがありました。でも学校や先生の指示とはいえ、無意味なレポートを律儀に毎日届けてきてくれたクラスメイト。
モヤモヤの気持ちが、机の引き出しを開けさせました。でも、「これ」を見てしまったら「認めて」しまうのではないか。ぐちゃぐちゃの何百枚ものレポートが入った引き出しを見て私は長い葛藤をしました。
でも、私は私であるために「正直」になるしかありませんでした。
1枚1枚のレポートをご飯もお風呂も無視して全部読みました。内容は1つも理解できないものでしたが、誰もが、私が授業内容が伝わるように丁寧に書いてくれたことはわかりました。
何もわからないレポートを読み終えた頃には、涙が出ました。
私の「正直」は、クラスメイトの「恩を認める」ことだったのです。
そして、私は決意します。
まもなく小学校の時代が終わる前に、「恩返し」をしなくてはと。
母に事情を話しました。でも、私が「恩返し」できることは1つしかありませんでした。
それは、
自慢のお菓子を作ること。
お礼を直接言うところまでは私は回復していませんでした。自慢のお菓子を作ったとしても手渡しするほど校内に入るほど勇気はありませんでした。
でも、母は私の思いを真摯に受け取ってくれて、学校と相談して、この「企画」がスタートします。
今思えば、この「企画」は大きなチャレンジで、現在パティシエとなった私が行っている仕事のレベル相当なものでした。
小学6年生の私は、先生を含めた37名に贈るお菓子を作るために「必要な材料」「材料費」そして「作業効率」まで計画して母と徐々に進めていきました。それは、プロの料理人と変わりないことを無意識で6年生の私は行っていたのです。
話は戻り、恩返しのプログラムは、整いました。我が家は貧乏だったため、高価なもので振る舞うことは断念しました。そのかわり、家族や親戚のみんなが私の計画に応援と支援をしてくれました。
作ったお菓子は、
「アプリコットジャムの入ったメロンパン」
「ブルーベリームースのタルト」
「ショートブレッド」
家族や親戚は、応援と支援はしてくれましたが、全て私が一人で作りました。それも朝からスタートして、次の朝7時までの作業でした。
家庭用のオーブン1個で37人分のそれらのお菓子を作るなんて、今思えばよく作れたものです。
メロンパンは、当然ながらパンを発酵させてジャムを包むように丸めて更に発酵させてクッキー生地をのせて焼きます。家庭用オーブンなので入る量はせいぜい6個ぐらいでしょう。
タルトも、型が1個しかないから8等分したとして5回は焼いたのでしょう。更に、ムースを流して冷蔵庫に入れて固めるわけですから、時間も考えなくてはいけません。思えば家庭用冷蔵庫を空けてくれた母にも感謝ですね。
ショートブレッドは、サクサク感を出すために、最後に焼いたのを覚えています。確か、焼き立てを切るので失敗のできない勝負のような思い出があります。
母と叔母は、計画書とは大分違う終了時間まで見守ってくれました。でも、全て終えた時には、みんなホッとしたのを覚えています。
力尽きた私は、着替えもせずぶっ倒れてそのままリビングで寝てしまいました。
後に聞いた話では、母と叔母が作ったお菓子達を大切に運んでくれて、クラスメイトに食べてもらい、喜んでもらえたそうです。
こんなイベントを行うなんて、そもそもは私の「ホクロ」をからかわれたことからでした。私の人生はどん底に落ちましたが、小学6年生にも関わらず、料理やお菓子に没頭できて、プロ並みのお菓子の大量生産の経験をすることができました。
どん底に落ちた損失は大きかったですが、その代償で得られた経験はもっと大きかったのです。
桧山先生にこの私の大イベントを報告しました。桧山先生は泣いて喜んでくれました。
そして、中学生となり、桧山先生との関係は卒業して新たなスタートをするのです。
私は、自分に自信が持てるようになりました。マイナスからのスタートは覚悟していたのですが、まもなくして中学校に登校するのです。
授業は全然わからなかったので、担任の先生の他に私の隣に別の先生が解説してくれました。それでもさっぱりわからない授業でした。ようやく1日目の授業を終えて帰宅します。
しかし、この帰宅途中で事件が発生してしまいます。
私が学校に復帰したクラスメイトは喜んでくれました。帰り道、仲間と帰った時のことです。喜んでくれるのは嬉しかったのですが、大はしゃぎしてしまったのです。そんな図々しく私に触るみんなが私は嫌だったのです。
咄嗟に私が手を出してしまったのです。わずかに一人の男の子を押してしまったのです。
その男の子はバランスを崩しコケました。みんなは、「何コケてこんだよー!」「大袈裟だなぁ!」とか言っていたのですが、当の男の子の表情は普通ではありませんでした。
その状況に、みんなと私は「どうした?」「どうした?」と見ると、
男の子の制服が少し破けてしまったのです。
私の顔は真っ青になりました。みんなも焦った顔をしていました。だって中学校に入りまだ1ヶ月も経ってないのにです。
ある子が私に言いました。
「お前、弁償しろよ。」
そしたら、みんなも弁償すれば大丈夫だ。と言い出すのです。私はおちょくられたからちょっと押しただけなのに。
私は言いました。
「わかったから黙ってろよ!」
帰って母に事情を話しました。話しているうちに私は涙が流れてしまいました。最後には、事情を話すどころか、
「だから、学校に行くなんて無理だったんだ!!」
と、現実逃避を必死にするパニックになった私がいました。母は、大丈夫だから。と言って制服が破けた男の子の家に行って解決しにいきました。
でも、私の心は解決どころか崩壊していました。
中学校で使う、制服もカバンも教科書など全てを灯油をぶっかけて庭で燃やしてしまいました。
もう全て消したかった。何も無かったことにしたかった。パニックで髪をむしり取ってしまいハゲまでできてしまいました。
もうその後、誰も私に何も言わなかったですし、そっとしてくれていました。
勇気と希望をくれた料理もお菓子作りも嫌いになってしまい、また引きこもりに戻ってしまうのでした。
私は引きこもりとなりましたが、1つだけ季節になると熱中するものがありました。
それは、
甲子園を見ることです。
元々私は、野球少年でもありました。
私の地元、常総学院を率いる伝説の監督の「木内幸男監督」が優勝に導く試合は今でも覚えています。2003年の決勝戦の現在メジャーリーグで大活躍の「ダルビッシュ有選手」がいた東北高校と常総学院の試合は、昨日のように覚えています。
優勝した次の日、大喜びで常総学院の優勝の新聞を切り取ってアルバムに入れました。
これは、伝説!歴史に残るものだと嬉しい思いをしました。
しかし・・・。
この時、私はある違和感がありました。
それは、新聞の文字が全く読めないのです。
「常総学院」や「優勝」など、感覚でわかるものは読めたのですが、内容が全然分からなかったのです。
私はもう15歳となり、普通の子なら受験生でした。私は、こんなにバカでいいのだろうか?と自分を見つめ直しました。
でも、今更、小学校の勉強から始めて受験なんて幼い私でも不可能だと思いました。
常総学院が優勝した次の日、私は天に昇る嬉しさから、自分の現状を知り気持ちが転落するのでした。
中学校を卒業後、私は1年浪人しました。受験どころか、自分に自信が持てなくなり何もかもが拒否してしまい、食事しても吐くぐらい追い詰められていました。
私は、生存本能のような感覚で、このままでは乞食になってしまうか、死んでしまうのではないかと恐怖に見舞われました。私は怖くて怖くて母に気持ちの全てを言いました。
そして、次の日のことです。小学生の時にお世話になったあの桧山先生が私の家に尋ねてきたのです。それは偶然ではなく、私に会いにでした。桧山先生は、言いました。
「ヒロ君、勉強したいんだよね。通信制の高校入ったらどうだい?」
私と家族は、通信制の高校の存在のことは知りませんでした。通信制の高校は、受験がなく、勉強のペースが緩やかで、3年卒業コースもあれば、4年卒業コースもあるのです。
16歳になり、私は通信制の高校に入学します。入学式の日、不安と恐怖でいっぱいでした。でも、その不安と恐怖は本物になってしまうのでした。通信制の高校は、不登校だった子もいれば、成人した大人もいます。
そして、ドラマの「ROOKIES」や漫画の「東京リベンジャーズ」に出てくるような生徒もいて、リアルヤンキーを目の当たりにするのでした。彼らの中には学校内でタバコ吸っていたりする人もいて、入学式の日から私の高校デビューは思い悩まされるのでした。
でも、クラスの部屋に入ると、意外と穏やかでした。年齢様々な人がいて、私のようなタイプな人もいて、少し救われるのでした。
クラスメイトはみんな私のように勉強をしてこなかった人が多かったです。当然ながら授業もスローペースで進み、やりやすい環境だったと思います。
しかし、私は特に勉強ができませんでした。家でも学校でも、まずは小学校レベルの勉強をしました。算数や漢字は、親にドリルを買ってもらい、そのドリルをこなして、ようやく中学校の勉強ができるようになって、中学校の勉強が終わる頃には、もう高校1年生の時期は過ぎていました。
でも、決して遊んだりはせず、高校1年生の時は、とにかくクラスメイトと同じ授業が受けれるように家では毎日8時間は勉強していました。そのぐらい必死でやらないと追いつけなかったのです。
その甲斐もあって、2年生になってようやく、みんなと同じレポートや授業のレベルに追いついてきて普通の高校生らしい生活ができるようになりました。それは、友達ができたり、クラスメイトと話したり、そんな些細な生活するのに1年がかかりました。
いつの日か、担任の先生が私に言いました。
「勉強もできるようになったし、何かやりたいことないのか?」
私は、1つやりたいことがありました。でも通信制の高校では無理だし、難しいと思っていました。
そのことを担任の先生に言いました。
「先生、僕のやりたいことは、この学校ではできないと思うので大丈夫です!」
しかし、担任の先生は、いいから言ってみろ!と言うのでした。
私は、少し恥ずかしい気持ちもあってなかなか言い出せなかったのですが、ようやく言葉が出ました。
「野球がやりたいです。」
私は、小学生の時にソフトボール少年団に入っていました。レギュラーだったし、バッティングも好きでしたが、不登校になり間も無くして行かなくなりました。
でも、常総学院が優勝した時、「野球っていいなぁ。」と思って、中学2年生の時、2ヶ月ぐらいだけ野球部に参加したことがありました。
しかし、授業は参加しないで部活だけする私を野球部全員と、顧問の先生は許しませんでした。
私は2年生でありながらも1年生と同じ行動を命じられました。同級生も後輩もキャッチボールすらしてくれませんでした。
ただ、いつもボール拾いと見学のような日々で、いつの日か「自分の居場所」ではないなと思い、部活に行く勇気と気力を無くしました。
親にこのことを言うと、もう部活は辞めて、他の方法で野球をすればいいだろうと言われました。でもバッティングセンターはお金がかかるし、壁当てする場所もありませんでした。私は寝転がって野球ボールを真上に投げて落ちてくるボールをキャッチするという地球の重力とのキャッチボールしかできませんでした。
いつの日か、母が市報の新聞に載っている野球チームの募集を見つけてきた。
でも、これって大人の募集じゃないの?と母に言いましたが、聞くだけ聞いてみたらいいじゃないと言われ、渋々そのチームの電話番号に電話をしました。
最初は明るい男性の声で、
「あぁ、募集見てくれたんですね!どこのポジションできるのですか!」
なんて聞くものだから、なんとなく可能性を信じたのですが事件が起きてしまいます。
「実は僕、中学生なのですが、そちらの野球チームに参加できますでしょうか?」
私は変な敬語を使い、恐る恐る聞きました。そうすると明るい男性の声が急に怖い声になり、
「あ?冷やかしかテメェ!〇〇○の番号は〇〇の地域だよな!今からそっち行ってぶっ殺してやろうか!!?」
私は、恐怖とパニックで何を言えばいいのか分かりませんでした。「すみません」「勘弁してください」「許してください」と何度も言い、いつの間にか向こうから電話をブチっと切られました。
それを私のすぐ隣で見ていた母は、「どうしたの!?」と言いました。私は黙って自分の部屋に行き、布団にくるまり、あの電話の男性が家に来ないように震えて祈っていました。
そして、心に誓いました。
「もう、野球なんて諦めよう。」
話は戻り、高校生になり、担任の先生に「野球をしたい」と言ってしまいました。すると担任の先生から思いがけない言葉がありました。
「野球かー。もしかすると今、校庭でやってるかもしれんぞー?」
私は驚きました。担任の先生は校庭に連れてってくれました。そもそも高校生2年生になり初めて野球をするような校庭があることを知りました。
すると、担任の先生が、
「お。いるぞ、やってるやってる。」
と言う。でもそんな雰囲気や人は私の目には映りませんでした。でも、よく見るとバックネットで二人、グローブを持ってキャッチボールをしているのです。私は先生に言いました。
「先生。あの二人でやっているのが野球部ですか?」
先生は、
「そうだ。」
と言うのです。
私が想像する野球部とはかけ離れていて正直がっかりしました。
でも、顔合わせして野球部に入りました。二人とも良い人でした。二人とも私より筋肉がなく、野球慣れしているようには見えなかったけどもチームメートができて高校生活に楽しみが増えました。
そして、野球部には実は私の他に4人いることが判明します。残りの二人は最近学校をサボっているそうです。でも、野球経験者(?)の私が野球部に入り、5人ながらも練習らしい練習ができるようになりました。
ある時、野球部の一人の先輩が言いました。
「俺、試合に1度で良いから出てみたかったなぁ。」
その先輩は3年卒業コースで、その年で卒業する人でした。
しかし、通信制の高校なので部活の存在はほとんど意味を成さなかったのです。なぜなら、授業を受ける登校の日は月に1度か2度です。しかも、通信制でちゃんと通学しているのは、社会人の人ぐらいで私のような10代の人はあまり存在せず、部活に興味を抱く人はいないと思ったのです。
でも、私はその試合に出たいという先輩の気持ちが切実に共感できました。私は、勇気も根性もない人間だったから、「俺、試合に1度で良いから出てみたかったなぁ。」と言う言葉に、
「そうですね。」
としかその時は言えませんでした。
でも、野球好きの私。漫画なら「ドカベン」や「MAJOR」などあらゆるものを読んでいて、もちろん「ROOKIES」も読んでいます。
野球漫画といえば、「仲間集め」が醍醐味です。私は、担任の先生に相談して、部員を9人にする方法を聞きました。
「そりゃぁ。お前。声かけしかないだろう。」
私は、野球部のみんなに協力を求めました。でも、改めて募集するなんて恥ずかしいみたいなことを言われてしまいました。
でも、行動に不器用ながらも、募集チラシを作り、教頭先生にお願いして、放送案内したり、直接野球部に入るように直談判しました。今思えばほとんど私一人でやってたような気がします。
そんな姿勢を見せていた私に、野球部顧問の先生からあることを言われました。
「あのなー。大人の人で良ければ何人か経験者呼べるけど、どうする?」
と言われ、私はついついよく確認もせず「ぜひお願いします!」と言ってしまった。
そして、野球部の第一回練習日を設けて授業が終わった後に校庭に行くと、驚く光景がありました。それは、
20人以上の野球部希望者が集まっていたのです!
嬉しい光景でした。
でも、希望者をよく見てみると私はちょっと怖気てしまいます。
それは、「ROOKIES」に出てくるようなヤンキーの集まりになっていたからでした。
でも、見た目は怖かったのですが、野球ができるということでみんな仲良く部活を楽しむことができました。
また、私の高校で野球部が再稼働するのは5年ぶりだったそうです。まさしく奇跡が起こった瞬間でした。
そして、念願だった試合に出場することが決まります。
しかし、奇跡には続きがありました。野球を本格的にやっている人が何人かいて、我が校は、定通大会(定時制通信制大会)で優勝して、全国大会に出ることができました。
全国大会の開会式には、なんと「神宮球場」で行われて、球場に入れたのは夢のような体験でした。
部活では順調に事を進めることができました。野球部が再稼働して全国に行けたことは学校にとって大きな事でした。
そして、私は2年生になってクラスメイトに学力が追いついたわけですが、2年生の中盤から成績が同学年の中でほとんどトップを取るぐらいまで成長することができました。
それらの功績があって私は「生徒会」に入る事を勧められました。私がなんて。と思いましたが、これも良い思い出になるだろうと、入ることになりました。
「生徒会」に入ってから様々なことにチャレンジや提案をしました。ちょっと生徒会の活動とは離れてしまいますが、「弁論大会」に我が校も参加しよう、と言うことで、学校内で弁論大会を行い、そして上位の人は関東大会、次は全国大会に出るという企画を行いました。
そして、生徒会がまずは参加すると言うことで、なぜか私が出場し、その年の関東大会は私が出ることになりました。
弁論大会とは、自分の持つ夢や抱負などを語るのですが、それが10分ぐらい台本無しで語らないといけないのです。しかも全生徒数百人の前で。
全国大会には一歩及ばずだったのですが、私のストーリーは賞をいただいて終わりました。
その後、私は4年卒業コースで学校生活を送るのですが、4年生になったら「生徒会長」になるのかと思ったら、3年生と4年生ともに「生徒会長」を任されることになり、野球部をはじめ、他の様々な部活を復活させたり創立したり、生徒会をはじめとした活動の幅を広げ、通信制高校でありながらも、普通の高校のような楽しいイベントや企画を行っていきました。
そして、成績も更に良くなり、いつの日か「大学生」を目指せるぐらいまで学力がアップしました。
小学生、中学生の頃の私は、鼻の下のホクロのコンプレックスがあったり、学力がなかったり、好きだった野球を諦めたり、人生がどん底でつまらなくていつ死んでも後悔しないぐらい諦めていました。でも、桧山先生が教えてくれた「通信制高校」が私の可能性を広げ、希望や勇気に繋げることができました。
人生がどん底でつまらなくていつ死んでも後悔しないぐらい諦めていると言うことは、実は諦めたくなくて楽しい人生を歩みたくて生きていたい、と心の底では強く思っていたのでした。
小学生、中学生の頃の私は、何もかもが制限されていたし諦めていました。
しかし、高校生になりチャンスが訪れて、それまで我慢していたものが爆発したように自由で楽しく生きることができました。どん底に落ちても、信じていれば必ずチャンスが訪れることを証明したストーリーだと思います。
高校卒業後、大学に行く話もありましたが、私は就職する事を決めました。なぜなら、大学や専門学校に行く理由がなかったからです。学校に行くよりも、様々な社会経験を積みたいという思いからでした。
それは、かつて好きだった料理やお菓子作りの思い出が私にとって原点だからでした。自分や誰かが喜んだり嬉しかったり楽しかったりするのが好きなのです。通信制高校に入学して、様々な人に出会い、行動を共にして、困難に立ち向かい、青春を初めて味わった体験の感情は、私の料理やお菓子作りで得られる感情に近かった
のでした。
いつの日か桧山先生と食べた「素うどん」のような、あの格別な美味しい味と、大切な思い出。
人が「生きる」ということは、「食べる」ということ。食べる幸せを求めるのは人間の本能でしょう。
私は、高校卒業後に関西で飲食店に就職し、お客様が喜んだり嬉しかったり楽しんで頂く極意を学びました。最終的には働きすぎて体を壊して地元に戻るのですが、その後も飲食店で働いていき、24歳の時にようやく私の目指したいものが見つかります。それが「料理人」です。
でもこの時は、お菓子作りが好きでもまだパティシエになるという感覚はなくて、美味しい料理を作ってお客様が美味しく食べる姿を見るのが生き甲斐でした。
でも、人はそれまでの人生や持っている感性があって得意不得意や本領発揮できるものがあると思います。それに気づいたのが29歳の時です。私は洋食やフランス料理を作るよりも、洋菓子作りの方が楽しくてやりがいを感じることに気づきました。
しかし、得意とか本領発揮とかすごい事を言えるほど私のレベルは高くありませんでした。
29歳で調理師専門学校に入学する決意をします。この決意ができたのはいつも近くで見守ってくれていた母のおかげです。まずは基本的なことや、パティシエとしての志を学ばなくては先には進めないという思いで入学しました。
しかし、専門学校に行けば誰もがパティシエになれるわけではありません。実際のところ製菓コースの私のクラスメイト37人中、お菓子の業界に就職したのはたったの7人です。そのうち現在、お菓子の仕事を続けてやっているのは私含め二人だけです。パティシエとして働いているのは私1人だけだそうです。
ある講師の先生が言っていました。
「オーナーパティシエが90%から100%の実力があるとする。素人は0%です。専門学校を卒業した人は何%だと思う?30%ぐらいだ。30%から就職して3年でようやく70%ぐらいでようやく使いものになるんだ。」
私は、この講師の先生の言うような人生は歩めることができませんでした。私には師匠という人がいません。専門学校を卒業して就職し、入社2〜3ヶ月からいきなり商品開発に重きを持たされました。だから、困ったときは自分自身で切り開き、解決しなければいけません。きっと世の中には、私の知らない技術や裏技のような知識や経験が山ほどあると思います。私は、それらを素通りして自分のお店を持ちました。
しかし、私のこれまでの人生を振り返ると、いつも遠回りでした。でも最終的には大満足して終えてきました。青春を感じて「ヤッター!」と初めて思えたのは高校を卒業した20歳の時です。パティシエになろうとして専門学校に入学したのは29歳でした。
これ無理だろう。自分にはできない。って思ったけど、それでも前に進んだ。
いつも一歩踏み出すことが怖くて、一歩目がすごく時間がかかって慎重になる。
でも。
一歩進んだら、止まることも戻ることもない。それは2度と登れない坂道を登っている事を知っているから。
厳しい坂道だったけど、困難もあったけど、ゴールの景色は最高だった。たどり着いた時の幸せは最高の気持ちでした。
そして、ゴールの景色に辿り着くと、次の坂道が見えてくるのです。それも今、登ったよりも高い坂道が。
私は、もっと美しい景色を求めて、幸せを求めて、また次の坂道を登るのです。
それが、夢を求めて幸せに生きるということ。
20歳で高校を卒業しました。20歳までの間の、3分の1は引きこもりで家の中だけで過ごしました。
普通の人に比べたら劣っているように見えるかもしれません。ダサくて負け犬のような人間にも見えるかもしれません。
でも、私が歩んだ人生は特別で素晴らしい人生だった。
これまでは、自分のために生きていました。自分が自由になるために生きていたと思います。
幼い頃に「桧山先生」と出会ったことによって私の人生は大きく変わりました。
私は、「桧山先生」のような偉大な人間ではないけども、
これからは誰かの「希望」や「勇気」となれるような生き方をしたいと思っています。
それは、私の使命や夢です。
美味しいお菓子を通して多くの人を幸せにすることが私の使命です。
また、私のような障害や難病を持った人間でも、「美味しいお菓子」が作れて幸せに生きている象徴として多くの人に「希望」や「勇気」をお裾分けしたいです。
今年の3月いっぱいでA型事業所が無くなることが全国で起こっています。全国で退職者が4000人を超えるそうです。退職者の多くは、次の働き口に困っている現状です。ひどい場合は無職や生活保護になる方もいます。
国が作った制度でA型事業所が成り立っていました。でも、国が制度を変えて事業所の多くは撤退しました。障害を抱えてA型で働いていた人にとっては大事件です。理由は様々ありますが、ひどい話だと思います。
そんな冷酷のような状況でも、私は前に進みたいと思いました。それは理由やタイミングもありますが、「運命」のようなものを何より感じていました。
それは、独立してお菓子屋さんとして活動するということ。
普通の健康な人でもお菓子屋さんで独立するのは難しいと思います。
私の福祉の支援員さんによると、A型事業所から障害を持つ人が独立して経営者になることは特別なケースで県で初めてのケースだそうです。
そのぐらい困難で、やり遂げるには様々な問題があります。
でも、私は「使命」と「夢」のために進みます。障害があろうとも、難病を持とうとも、人が持つ情熱や思いは、無可能を可能にする力があることを私は知っているからです。
困難や問題はありますが、それらが大きいほど、乗り越えた先の見えた景色はとっても綺麗で最高だと思います。
何より大きな壁にぶつかるほど私の情熱は燃え上がります。そのぐらいがちょうど生き甲斐となって楽しいのです。
私のお菓子作りはまだまだ未熟で勉強することも練習することもたくさんあります。経営も含めたらまだまだ初心者です。
でも、母が私にプレゼントしてくれた「お菓子工房たびこ」には、ある想いがあります。それは、「誰かに縛られずに」「無理のないように」「自分らしくあるために」、私が幸せに満足なお菓子作りをするということです。
私の20代の頃は無理に仕事をして、心も体も壊しました。精神科の病院の入院をしたことを2度あります。
挫折の繰り返しから見えてきた本当の自分の生き方。
精神疾患や難病を持って生きることはとても辛いことでもあります。
しかし、それらがあったから自分をよく知ることができました。
私の今年は、どんな年になるのか分かりませんし、想像も予測もできません。
でも、お菓子工房たびこのパティシエとして皆様に「幸せ」や「希望」「勇気」をお届けしたい。私は、すごいパティシエではありませんが、できることを一生懸命にやって、コツコツと地道な歩みで「夢」を叶えたいと思います。
あとがき
私の幼い頃のストーリーを含めた「夢」への挑戦のお話。「桧山先生」と出会ったことは私の人生を変えた大きなことでした。「桧山先生」が私に生きる「希望」と「勇気、そして「幸せ」を与えてくれたことは言葉では言い表せることのできないぐらいの感謝のことです。「桧山先生」のように素晴らしいことはできませんが、私なりに「希望」と「勇気」を誰かに与えるぐらいの存在になることが私の「夢」です。
noteと出会って、私の話をする場ができたことは嬉しいことでした。私の人生の談話から少しでも皆様の人生に勇気や希望へ繋がってくれれば嬉しいです。
今回は15000文字を超える長文となってしまいました。ここまで読んでくださりありがとうございました。
そして、感謝の気持ちを胸に日々過ごしたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
Gutsヒロ