
ない日記「明治時代のBOOKOFF」
夏があまりにも早く来たので、電車を乗り継いで明治時代に行ってきた。お目当てはBOOKOFF。Instagramでどこぞの誰かが写真をあげていて、本好きの食指が動いてしまった。
毎度のことながら、真田岬駅の乗り換えが面倒で、空港かと思うくらい動く歩道に乗った。もしくはディズニーランドに向かうのに東京駅で京葉線に乗り換えるくらい。ディズニーランドに行くなら夢見心地でボーッと踏板に乗っていればいいが、この日は目的地がBOOKOFFなので、勢いで旅に出たことに早くも少し後悔した。
明治時代に着くとやっぱり街は汚くてどこか殺風景だった。過去の時代を訪れる度に思うけど、大河ドラマってけっこう頑張ってる。セットの再現度がかなり高い。ドラマで見た景色と旅行先で目の前にある景色があまりに同じだから、現実が現実味を少し失う。そういう意味ではディズニーランドの方が現実だ。夢を見せたいから存在するって立場が揺らがない。
とはいえ久しぶりのタイムトラベルにテンションが上がっていた。「文明開花、文明開花、石炭で走る鉄の馬!」とラーメンズ片桐仁のギャグを完コピしながら街を歩いた。ええい!旅の恥はかき捨てじゃい!と気を大きくしていると、「君、何をやっている」と警官に呼び止められた。まあそりゃそうだ。
慌てて「これはオンエアバトル初期の立役者となったコント師のギャグで…」と説明をまくし立てたら、「これだから現代人は」といった目線を向けられ、「あんま一人でやるなよ」と麦飯を奢ってくれた。一人だからやっていたのだが、そんな言葉は麦飯と一緒に飲み込んで、「次こそは必ず誰かとやります」とその場しのぎの決意表明をしておいた。
警官と別れ、BOOKOFFを目指したのだが、明治時代は土地情報がまだ整備されておらず、Googleマップにまったく別の場所に案内されてしまった。仕方がないから自分で探すことにしたが、街並みは簡素で似たような建物が多く、歩けど歩けどBOOKOFFが見えてこない。道行く人に聞けばいいものの、ここまで自分で探したのだから最後まで探したいというこだわりが生まれてしまい、結局BOOKOFFにたどり着いたのは小一時間歩き回ったあとだった。
入店すると「へいらっしゃい!へいらっしゃい!へいらっしゃい!」とお馴染みの三回コールで出迎えられた。玄関入ってすぐのところは人気の小説コーナーで、夏目漱石の本がずらっと並べられ、立ち読みできないように麻紐で縛ってあった。他の本は無造作に棚に詰められているので、さすが漱石といったところだ。同じ棚に「夏目漱石の作った言葉辞典」や「実はシャバいよ夏目さん」といった自社編纂っぽいムック本が置かれていた。なかなかうまいやり口だと思った。
店内を見渡してみると士農工商そっちのけでそれはもう色んな人が立ち読みをしていた。農作業帰りの百姓が鍬を小脇に抱え泥だらけの手でページをめくる反対側で、武士が立派な二本差を携えて難しそうな本を難しそうな顔で読んでいた。刀同士がぶつかると斬り合いが始まるなんて話を聞いたことがあるけれど、BOOKOFFにやってくる武士たちは狭い通路をイライラ棒よろしく器用にすり抜けていた。彼らの子孫が渋谷のスクランブル交差点でもスマホを見ながら歩ける人たちなのだろう。
滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(完全版、豪華挿絵付き)の棚に群がる女性の一団を避けて隣の通路に出てみると、さきほどの警官が春画を貪るように読んでいた。こちらが迷っている間に偶然にも先回りされていたようだ。麦飯を奢ってもらった手前、見なかったことにしてやろうとその場を離れた。
ひと通り店内を見終わり、『学問のすゝめ』をどうしても売りたい客と在庫が余ってるから買えないと門前払いしようとする店員によるレジカウンターを挟んだ戦いを遠目に眺めていると、こっそり店の外に逃げようとする警官とバッタリ出くわした。「あれ止めなくていいんですか?」と聞くと、「よくあることだから」と苦笑いしていた。
会話の流れで僕ら二人は一緒に店を出た。警官が街をぶらついているのはいかがなものかと軽く咎めたところ、「俺もツラいんだ」と、警官という身分のあやふやさを語り出した。
警官が街の平和を守るために存在するのは確かだが、未だに武士たちは武士として街を闊歩している。これまで何百年と続いてきた慣習と人々の常識は、新たな制度が施行されたくらいで変わるはずもなく、武士をありがたがる空気はゆるがない。そんなところで警官が張り切って仕事をしてしまうと、武士の面子を潰してしまうし、人々からは鼻つまみものだと思われてしまう。だから警官は暇を持て余すくらいがちょうどいいのだ、と春画野郎はのたまった。
よく喋るってことはきっと前々から語る機会をうかがっていたのだろう。うっかり飛び出そうになった反論は、警官に奢ってもらった五平餅と一緒に飲み込んで、僕は帰ることにした。
どういう働き方であれば、人間らしく、労働と文化を両立できるのか?
日本人はどのように本を読んできたのだろう。
日本に「黙読」が登場したのは明治時代初期。活版印刷と句読点が普及し、本は格段に読みやすくなった。ふつうの市民から成り上がった人のみの伝記を集めた『西国立志編』がベストセラーになり、出版業界は自己啓発本と共に大きな産声を上げた。
エリート青年たちは新渡戸稲造に影響を受け、知識を身につける教養を通して人格を磨くことを目指すようになった。その一方で、労働者階級は修養によって自己鍛錬し、個人として立身出世することを目指した。「教養」と「修養」のどちらにおいても読書は大きな役割を持った。そして、両者が統合されたのが今日の「ファスト教養」と呼ばれる「ビジネスに使える、効率重視の教養」である。
テレビの普及が進んだころ、テレビのおかげで売れる本が現れた。その筆頭が、大河ドラマによって売れる歴史小説であった。例えば、海音寺潮五郎による上杉謙信を主人公とした歴史小説『天と地と』は合計150万部が売り切れ、ベストセラーになった。だがなんと、作者は「テレビが栄えて、文学がおとろえつつある」と引退宣言をしてしまった。これはTikTokで小説を紹介する文化が台頭したときに、書評家がそれをSNSで批判した現象と同じだ。どちらも新興メディアの登場によって文学の影響力が失われることを危惧している。
ここで風呂敷を大きく広げてみると、読書を取り巻く諸問題は出版の誕生からついて回るもので、日本人は昔から変わらないのかもしれない。いくつかの問題点がくっついたり離れたりを繰り返し、新しい呼び名が与えられているに過ぎない可能性がある。読書を取り巻く現象をわざわざ「問題」ととらえることも、あるジャンルまたは出版界におけるあるポストを特別視する人が騒いでいるだけだということもありうる。
僕としては、メディアに大きく取り上げられる読書を取り巻く「問題」について頭を悩ます時間があるなら、本屋に行って読むかもしれないし読まないかもしれない本を眺めてニヤニヤしていたい。無責任な想像の世界ですいすいと泳いでいたい。
働いていると本が読めなくなる問題は、文化的な生活を脅かすという意味で憲法級に重要なことがらだ。労働と読書の関係、つまりは日本の労働史と読書史について詳しく知りたい方に『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書)をおすすめする。かつてない角度で日本の近現代を振り返る面白い本である。

最後まで記事を読んでいただきありがとうございます。もしよかったらサポートお願いします。もっとたくさんの新書といっしょに暮らすのに使わせていただきます。メンバーシップ部分には最近もやもやしたことを書いています。
【最新回配信】
— リップグリップの出典 (@lipglipradio) May 9, 2024
第82回の出典:三宅香帆「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」
昨今流行りの"ファスト教養"と教養の違い、読書の価値や意味について、なぜ人はネットを見てしまうのか…
先週とは一転、今週は真正面から読書に向き合う回です。#リップグリップの出典https://t.co/FNIfsV9T3U pic.twitter.com/8yW9le2XW1
よろしければサポートお願いします。新書といっしょに暮らしていくために使わせていただきます。