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『メタバース進化論』感想

 メタバースは、近年にわかに注目を集めるフロンティアの名称である。本書は、その原住民自身による入門書。自らの体験と統計を基に記されるメタバースの現状や、経済や哲学の観点から描かれる展望に、好奇心をくすぐられる。
 わたしはふと、希望に満ちたその筆致から、小学生の頃に読んだ『あたらしい憲法のはなし』を連想した。戦後日本で、平和や民主の素晴らしさをうたった官給本だ。『メタバース進化論』も、新しい時代の幕開けを象徴する一冊になるかも分からない。

 SFに書かれた事柄が現実になる――。宇宙飛行や人工知能を初めとして、歴史上何度も繰り返されてきた。しかし過去のソレと比較しても、「メタバース」という新たな現実の創造は、比較にならない可能性を秘めている。一人のSF書きとして、非常に興味深い点も多々あった。

 例えば、その一つが「ファントムセンス」だ。VR内での接触を、現実のものと錯覚する。本書を読む以前にも、コレに関しては耳にする機会がいくらかあった。仮想現実でギロチンにかけられたユーザーが、現実に帰った後も、切断部分に違和感を覚えたり、発汗やめまいに襲われたり。もしもメタバースが今後その現実感を増していき、生活に密着するものとなっていくなら、この感覚はより一層一般的で、かつ強いものになるかも知れない。ならば、今まで『ソード・アート・オンライン』のようなSF小説において、読者にとりVR世界をリアリティあるものにするため書かれてきた、「痛覚を実装する仕組み」なんていうものは、不要だったのかも分からないのだ。
 そのときわたし達は、かつてのようにゲームを楽しむことができるのだろうか? 銃撃戦やカーレースといった「現実ではできないもの」を楽しむ世界が、「第二の現実」になってしまったら? 架空とはいえ、死の恐怖と隣り合わせで戦場を駆けるコトが楽しいだろうか? ――だが本書によれば、VRを利用する時間が長いほど、高所からの落下を実感しなくなる、らしい。案外、慣れてしまうのかも。
 なれば逆に、今度はVR世界での感覚と、現実での感覚を、混同する事例が発生することはないだろうか? 高所からの落下に慣れる、恐怖を感じなくなることは、死が存在しない仮想現実内では良いことだ。だが、恐怖の減退が、現実での危機感を鈍らせることになった場合――?
 なんて、少し妄想をはかどらせてみる。未知のモノが実社会に実装されたとき、何が起こるのか空想するのは、SFの楽しみ方の一つであろう。

 あるいはまた、著者の提唱する「分人経済」という概念も面白かった。アバター経済圏のようなメタバースにおける経済の可能性には、旧来の「情報の商品化」では、はかれない側面があるかも知れない。しかし同時に、それがどこまで発展可能なのかには、疑問が残る。
 メタバースには消費財が存在しない。それはつまり、常に新規性のある商品を開発しなければ購買欲をかき立てることができない、ということでもある。本書に紹介されるアバターのファッション経済は、「衣類の消費」という需要の保証無しに継続される必要がある。エフェクトを身に纏う仮想現実ならではのファッションであったり、あるいはコンピューターの性能向上に伴うより精密な動作(風に揺れるスカートの表現など)であったりと、需要の創出に繋がる「新規性」はやや限定的であるかも知れない。もちろん、そんな予測を越えるのがクリエイターの役割ではあるのだけれど。
 思えば、青空文庫に古典作品が溢れていても、それが原因で小説が売れない、ということはない。変化する日本語と、そして常にアップデートされていく価値観が、自然と古典を古典たらしめる。同じことがここでもいえるのかも分からない。メタバースは個人の創造を加速させる。加速された創造は、文化の変遷をも加速するのか。あるいは渋滞を起こすのか。そこが重要なのだろう。
 妄想がはかどる。
 ゴールドラッシュに湧くアメリカ人も、こんな気持ちだったに違いない。

 さて。メタバースは、経済上、そして人間のあり方において、重要な役割を果たすだろう。

 歴史上、拡大し続けた世界システムは、その経済発展において外界から絶えず供給される無尽蔵の富を前提としていた。経済圏に組み込まれていない蛮族の地を開拓し、搾取し続けることで発展した。だが、世界システムが地球全土を覆った現在、搾取すべき未開の地は見当たらない。無限に広がり続ける(かのように見えた)世界を失い、地球という小さな土地に立った我々は、経済発展を諦め限られた資源でやりくりするか、新たに「宇宙」「海底」といった未開の地を見いだす必要に迫られている。
 この「宇宙」「海底」に続く第三の選択肢として、「メタバース」が挙げられるだろう。そこには、事実上「無限」の土地が存在する。現実の商品と比較して創造に必要なコストが極めて少なく、理論上は「無限」の富を創出できる。
 無論、それが現実の資源問題に影響を与えるワケではない。だが経済活動の点でいえば、大いなる可能性を秘めている。

 そしてまた、メタバースが可能にする文字通り「自由」な自己表現は、わたし達の価値観に決定的な影響をもたらす。ポジティブな側面も、またネガティブな側面もあるかも知れない。
 人間は、「自然」に属するものを否定してきた。単に、科学による直接的な自然の支配のみを指すのではない。思想や文化においてもやはり、そうなのだ。「生殖」「排泄」を秘すべきものとするのが良い例だろう。しかしその一方で、同時に肯定してもいる。反出生主義を耳にして、多くの人は「生殖は自然なことだ」と口にするのではないだろうか。反肉食主義を耳にして、「他の動物の命を食べるのは自然なことだ」と口にするのではないだろうか。
 ここには、人間の「自分は動物とは違う理性をもった存在だ」という半ば願望じみた自負と、動物的(自然的)快楽に対する執着とが、見いだせる。
 メタバースによる自己表現は、人間を肉体から解放し、「動物とは違う」何かへと、また一歩踏み出す(ある種の自由化の)契機となるかも知れない。「自然ではない」という理由で性的マイノリティが否定されることも、また一段と少なくなるかも分からない。
 だが一方で、別の意味での「自由」を阻害する可能性もあるだろう。
 第一の理由。誰もが好きな姿でいる空間は、同時に大衆の価値観を視覚化する場にもなり得るのではないだろうか。「服装自由」とされる場所で、現状は文字通り自由な服装をしているかも分からない。けれどそれは、リクルートスーツの独壇場に転化する可能性をも秘めているのだ。人間の好みの多様性を信じられるかどうかだろう(わたしはやや懐疑的)。
 第二の理由。全世界を接続するメタバースは、本来国境によって保たれていた文化的差異を、失わせてしまうかも知れない。つまりは「文化帝国主義」の加速である。本書においても指摘がなされているように、メタ(旧フェイスブック)が開発を進めるメタバースの方針によっては、現在ある自由なアバターのあり方(自己表現)が、排除されてしまう可能性がある。メタバースが「第二の現実」となるならば、その影響は計り知れない。あるいはそこまで直接的でないとしても、運営会社のガイドラインによって一定の抑圧を受けることは必至であろう。極端な話、アマゾンの奥地に裸で暮らす者達は、メタバースにおいてその生活様式を維持できないということだ。国境がなくなるということは、文化の統一を意味している。
 何はともあれ。
 メタバースが、巨大な「何か」であることは、もはや疑いようのない事実のようだ。

 ――我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。

 よく似たフレーズが、本書の中で繰り返される。
 ゴーギャンがタヒチの住民にその問いを見いだしたように、読者はメタバースの住民にその問いを見いだすのだろう。

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亜済公
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