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公正と公平と平等の概念の位置づけ

春秋筆法(しゅんじゅうのひっぽう)
→ 公正な態度で厳しく批判することや言葉や文章の中に称賛や批判の意味を暗に含ませること。
厳しく批判することがしにくくなったという話を聞く機会が増えたように思う。

そして、そこには必ずといっていいほど、最近の若者に対してという枕詞がつくように思う。

そう、私が昔から大嫌いだった言葉の1つで、それは今も変わらない。

私自身もその場の流れや比喩に近い形で、同様にニュアンスの言葉を口にすることはあるが、変化を受け入れることができない人の言い訳だと思っている。

その人の主張が必ずしも正しいわけではなく、全ては俯瞰で捉えなければいけないことが欠如しているのである。

公正な態度や公平性の主張という勘違い

世の中の大半の人は勘違いをしていて、そのことに気がついていない。

ただ、その事実を憂いても是正できるものではないので意味がないし、そういう大前提のもとで生きていく必要がある。

キリッとした感じで、私はあなたのためを思っているという態度や言動で近づいて来る人は要注意だ。

そういう人のほとんどは、公正な立場を主張し、公平を訴えてくるだろう。

それぞれの意味についてはChatGPTにでも聞いてもらいたい。

今回のテーマについては、あくまで私の感覚で語らせてもらう。

結論から言うと、公正な立場、公平性の主張ほど無意味なものはない。

なぜなら、世の中には必ず格差が生まれるからである。

悲しいかな、必ず強い立場の人間と弱い立場の人間が生まれてしまう。

もちろん、できるだけ公正に、公平にということを心がけることには賛同する。

けれども、それを全面に主張したところで結果として、必ず格差が生まれてしまう。

その理由は、シンプルで世の中の構造がそうなっていて、それを是正することに生涯をかける価値がないからだ。

そんなことに一度しかない人生の貴重な時間を投じるくらいなら、そんな世の中で勝てる場所を見つけた方がいい。

くり返し主張しておくが、公正な態度、公平性の主張は所詮ポジショントークであって、本質があるものではなく格差が生まれる。

平等という勘違い

とりわけ、日本社会においては平等を重んじる傾向が強い。

弱者に合わせようとする傾向がある。

これは一見すると、平等が保たれて好循環を生むように思うかもしれない。

けれども、実際は真逆の世界が生まれることを私は知っている。

なにが言いたいかというと、一瞬は上手くいっているように見えるかもしれないが、必ず格差が拡がる。

これも悲しいかな、世の中にはできる人とできない人に二分される。

本来であれば、このことは世の常なので原因を究明する必要もなければ、それを大前提で物事を全て組み立てればいいのに、余計なことを始める。

それが、弱者に寄り添おうとする偽善だ。

このことは、学校教育の場面で何度も説いているのだが、改めてここでも書いておこう。

できない人に合わせる、平均的な人間を生み出すのが日本の教育だ。

第二次世界大戦以前はそんなことがなかったとか、敗戦国である日本に対してアメリカがそうしたといった思想を押しつけて来る人がいる。

まあ、一理あるかもしれないが、事実を知らないのでそんなことはどうでもいいし、私の思想とは全く関係がない。

そんなことよりも重要なことは、人生において平等な場面などないということだ。

仮に平等でスタートしても選択をくり返しながら生きていく人生においては、必ず格差が生まれる。

公正な態度、公平性の主張でも同様に述べたが、平等という考え方は必ず格差を生む。

格差を否定する人たちへ告ぐ

格差という言葉を聞くと、格差はなくさなければいけないと言い始める人が現れる。

そして、その主張となる根拠にはなんの説得力もないというのが常である。

そういう人たちは、ただただ格差を受け入れることができない小さなプライドの塊のような人か、格差を利用したビジネスをしている人に二分される。

なぜなら、格差は肯定するものでも否定するものでもなく、必ず生まれるものだからである。

大切なことは、格差とどうやって向き合って生きていくのか、どうすれば格差を受け入れた上で自分の人生を裕福に生きていくのかということである。

このことが理解できていない人は、常にお金のことを気にしたり、将来に対して変な不安を抱えていたりする傾向が強い。

格差はなくそうと思ってもなくせない。

仮になくせたとしても、また新たな格差が生まれることは歴史が証明しているし、格差をなくすことに尽力するほど無駄なことはない。

そもそも、格差が生まれることが悪いことなのだろうか。

なぜ、格差が生まれてはいけないのだろうか。

格差が生まれたとしても、円滑に動いていて、幸せだと感じる人が大半を占めていれば、世の中は上手く回っていると言えるのではないだろうか。

格差を受け入れることで拓ける道

ハッキリ言うが、生まれた瞬間から格差はある程度あるものだ。

1,000億円の資産のあるの資産家の家庭と貯蓄が10万円の家庭で格差が生まれないと本気で思っている人がいたら、壊滅的だということは理解できるだろう。

というか、それが理解できないという人は、私とは生涯交わることがないので関わらないでほしい。

では、ほとんどの人が持つ平等の概念を取り入れて、2つの家庭を平等にするために1,000億円分の資産を500億円の資産に分けて、10万円の貯蓄も5万円ずつに分配したとしよう。

そうすることで、本当に平等になると思っている人は、失礼な言い方を承知でいうが、脳がお花畑だ。

そもそも、10万円の貯蓄しかないような家庭の人たちが500億円という資産をいきなり受け取ってまともな生活ができるだろうか。

断言するが、破綻の道を選んで10万円の貯蓄があったころの生活に比べて貧しくなる。

なぜそんなことが言い切れるのかというと、そういう人たちは資産に対する考え方、つまりお金に対する教育が皆無だからだ。

50%の確率であっても、ファイナンスリテラシーがなければ外す。

一方で、もちろん資産家が全て正しいとは言わないが、なにも持っていない人たちよりも勝てる可能性が圧倒的に高い。

なぜなら、理屈は知らないにしても、ある程度のファイナンスリテラシーを教育によって兼ね揃えているからである。

そう、格差がどんどん拡がって、金持ちはさらに金持ちになることが叫ばれれているが、このことは抗えない事実だ。

そこにいくら抗ったところで、差は開く一方だという事実をまずはしっかりと受け入れよう。

格差を受け入れた上でやるべきこと

重要なことは格差があることを受け入れることと、人生を諦めることは全くもって別物だ。

生まれた環境や、今までやってきたこと、今の環境を十分に理解した上で格差を受け入れることで、自分の人生を全否定してしまう人がいる。

私はそんなことは一言も言っていない。

もちろん、そもそもの資産家やいわゆるお金持ちという立場の人の方が、これからもより資産を増やす資産家になったりお金持ちのレベルを上げる可能性が高いことは否定しない。

けれども、ゼロからスタートしてそっちの立場に行けないなど微塵も思っていないし、むしろいくらでもチャンスがあると思っている。

肝心なことは、資産家やお金持ちと呼ばれる立場の側に行きたいのであれば、世の中の仕組みをしっかりと理解することである。

そして、理解した上で、どうやれば自分が勝てるのかとにかく行動を起こすことである。

多くの人は、そんなことを全く考えず、公正な態度、公平性の主張をする人に自分の人生を託し、平等が全て自分を救ってくれると信じている。

ハッキリ言うが、そんなものは幻想でしかない。

格差は必ず生まれるものだという認識を持った上で、どうすれば勝てるのか模索する人生の方が格差と共に生きていくことができることを知らない人は不幸ですらあると思っている。

まとめ

予め宣言しておくが、格差が拡がれば拡がるほど、公正な態度、公平性の主張をする人が増える。

平等といういかにも立派な概念を抽象的に振りかざして、聖人君子にでもなったつもりなのだろうかという人も現れるだろう。

そして、思考停止した人たちはそういった人たちに依存し、本来は自分で掴むべきところの幸せというものが掴めない人生を送ってしまう。

改めて書いておくが、公正な態度、公平性の主張をする人、平等という概念を否定するつもりはない。

ただ、そこに全てがあるという大前提のもとでの人生は、結局最も遠ざかった人生で終わることを主張しておく。

大切なことは格差が必ず生まれることを知った上で、どのように生きていくかだ。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。