孔孟老荘という4人の著名思想家の教え
現代にも語り継がれる、有名な思想家がいる。
その中でも、孔孟老荘の四字熟語の頭文字になっている4人のうち、1人くらいの名前は聞いたことがあるのではないだろうか。
くり返し、書いておくが、孔子、孟子、老子、荘子の4人だ。
ということで、この4人について1人ずつ解説をしていこう。
孔子(こうし)ってだぁれ?
孔子は尊称で、氏は孔、名は丘、字は仲尼(ちゅうじ)といい、出身地は魯国昌平郷で、現在の山東省の曲阜である。
生年月日は、紀元前552年で死亡年月日は紀元前479年、享年73歳という生涯だった。
そんな孔子の父親は武人の叔梁紇(しゅくりょうこつ)、母親は身分の低い巫女で顔徴在(がんちょうざい)といい、父親が60代、母親が16歳のときに生まれました。
また、母親は正妻ではなく、孔子が3歳のときに父親を亡くし、貧しい母子家庭ながら14歳から学を志す。
ところが、17歳のときに母親も亡くなり、孤児となるという人生を歩んでいる。
その後、27歳から魯の役人として、倉庫番、牛馬の世話係などの任につきながら、勉学に励んで礼学を修める。
孔子は後に、私は幼いとき貧しかったので、つまらない多芸に秀でているのだと語っている。
また、孔子の弟子が先生はあらゆる所で学び、決まった先生はいなかったと答えている。
孔子は、下級役人から徐々に出世して政治に携わるようになると、わからないことがあればどんな人にでも頭を下げて教えを請うたという。
その熱心で謙虚な姿勢から人々に慕われ、徐々に弟子が増えていった。
孔子が34歳のときに、クーデターで失脚した昭公を追って魯を出るが、再び帰国する。
魯では長年任官はしなかったが、50代で大司寇(最高位の裁判官)、外交官などといった高い位につく。
そして、三桓氏が強い権力を持っていた魯の政治改革を目指すことを決意する。
ただ、三桓氏の勢力は削げず、孔子の改革は失敗に終わると官位を辞して、13年間の諸国遊説の旅に出る。
69歳で魯に帰ってくるのだが、任官はせずに私塾を開いて弟子の教育に力を注ぐと、その数は3,000人に達したという。
その後、死去するまで、詩経、書経などの古い書物を編纂し、儀礼や音楽を整理し、魯を中心とした歴史書である春秋を創作する。
孔子の死後、弟子たちによって、孔子の言葉や行いをまとめた論語が作られると、こちらが現代にも語り継がれる歴史書となっているわけだ。
孔子は身長が216cmもあったと言われ、食べ物にもこだわりがあったとされる。
それから、儒教の創始者である孔子という立場も忘れてはいけない。
孔子の教えの根本には儒教で、儒教には五常と呼ばれる5つの徳性である、仁、義、礼、智、信がある。
仁:人を思いやること
義:私利私欲に囚われずに、己のなすべきことをなすこと
礼:仁を具体的な行動として体現すること
智:学問に励むこと
信:ウソをつかないこと、約束を守ること、誠実であること
政治理念は、徳治主義で、孔子は徳のある統治者がその持ち前の徳を以て人民を治めるべきであるという理念を持っていた。
孟子(もうし)ってだぁれ?
孟子は、名を軻(か)、字は子輿(しよ)といい、現在の山東省に位置する鄒(すう)国の人である。
生まれは紀元前372年頃で没年は紀元前289年とされており、先述した孔子の没後百年ほど後を生きた人物である。
そんな孟子は、若い頃に魯国に遊学し、孔子の孫である孔伋(こうきゅう)の門人から儒学を学んだという。
孟子は孔子の正当な継承者と自負しており、自尊心が高い性格だといわれている。
そのため、君主に対しては非常にドライな態度で接し、諸国に遊説に向かう際には、馬車数十台、従者数百人という大所帯で向かった。
孟子が教えを説いてまわった君主は、梁の恵王、斉の宣王、鄒の穆公、滕の文公などがいますが、彼の教えは本格的に採用されることはなかったという。
晩年は目立った活躍はなく、もっぱら弟子の育成に努め生涯を終えたとされている。
孟子の幼少期にはいくつかの逸話があるので紹介しておこう。
幼いころ、孟子の母親は孟子と墓地の傍に住んでいたが、孟子が葬式の真似事を始めたため市場の傍に引っ越しした。
次に孟子が商人の真似事を始めると、今度は学問所の近くに引っ越すことにした。
すると孟子は学問に励むようになり、母親は引っ越すのをやめたという。
これを、孟母三遷(もうぼさんせん)といい、周囲の環境が子どもに与える影響の大きさについて述べている。
もう1つ、紹介しておこう。
あるとき、孟子の母親が孟子に学問はどこまで進んだかと進捗を聞いた。
孟子が少しも進んでいないと答えると、母親がおもむろに刀剣で織り途中の織物を切断した。
そして、学問を途中で止めてしまうということは、織り途中の織物を途中で切断してしまうのと同じだと説いた。
それ以降、孟子は猛省して学問に打ち込み、立派な儒学者になったという。
孟子は君主の存在意義を幸福にする政治を行うことと考えた。
もし君主がその使命を果たさなければ、それはもはや君主ではなく、1人の匹夫になるため討伐しても問題はないとした。
孟子は武力を否定した孔子とは違い、更に現実的な考えと理論を展開したと考えた。
仁愛によって世を統治するという理想主義的な孔子の側面を補うこの考えは、荀子(じゅんし)に至って更に研ぎ澄まされる。
孟子とよく比較される荀子だが、決定的な違いは人の性、つまり本質を善とみるか、それとも悪とみるかというものだ。
つまり、孟子が善、つまり道徳的とみたのに対し、荀子は悪、つまり利己的とみて礼を重んじんたというわけだ。
そんな孟子の思想は書物、孟子にまとめられており、特徴は孟子が政治のスタンスを下記の2つに分けたことだとされている。
王道:天子の徳によって治める政治であり民の心を得る方法
覇道:民の心を得る徳の政治であるため結果的に天下を得ることができると説いたもの
孟子の考えは、天下を得るために民を得る必要があると考え、民を得るためには民の心を得ることが重要だと主張している。
反対に、覇道は武力によってかりそめに仁政を行うもので、孟子はこれを王道に劣る政治と位置づけている。
また、春秋五覇や当時割拠していた戦国七雄等の諸侯を罪人と批判している。
加えて、孟子の特徴的な思想に、人の性、つまり本質は善であるという性善説に立っているというところもある。
老子(ろうし)ってだぁれ?
紀元前6世紀ごろに中国の春秋時代に活躍したとされている思想家だ。
ただし、神話上の人物とする考えもあり、本当に実在していたのかは定かではない。
老子にまつわる記録の多くは、紀元前1世紀ごろに司馬遷によって編纂された歴史書である、史記にある。
史記によると、出身は楚の苦県で、その後に周で書庫の記録官として働いた。
儒教の始祖である孔子が、儒教思想における礼の教えを受けるために老子のもとを訪れたという記述があることから、孔子と同時代を生きた人物だと考えられている。
道徳を修めた老子は、自分が有名になることは望んでおらずひっそりと暮らしていたという。
しかし、心身や周の国力の衰えを感じ、ローマ帝国に旅立ったとされている。
その際に、国境の関所にて役人から隠棲するなら、その前に是非教えを書いてもらえないかと請われ、老子道徳教を書きあげた。
春秋戦国時代に現れた学派を諸子百家と呼ぶが、そのなかの道家は老子の思想を元にしたものだ。
後に発展して宗教となった、道教において老子は始祖として神格化され、太上老君(たいじょうろうくん)と呼ばれるようになった。
ちなみに、老子は偉大な人物という意味で、本名は李耳だ。
当時の中国では、孔子や孟子など、多くの著名な学者は姓に子という尊称をつけて呼んでいた。
それに対して、老子だけが李子ではなく、老子と呼ばれているのだが、その理由は不明だ。
儒教や仏教と並ぶ、中国三大宗教の1つが、道教だ。
漢民族の伝統的な宗教で、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す、道(たお)を概念の中枢に置いている。
道と一体になるために、錬丹術で不老不死の霊薬を作り、仙人となることが理想とされている。
実は、老子や荘子など道家といわれる人々の思想と、道教との間に直接的な関係はない。
当時はインドから流入したきた仏教が新興勢力として台頭していて、それに対抗するために漢民族の土着信仰を体系化する必要があったといわれている。
その過程で、仏教の釈迦や儒教の孔子のような存在として老子を教祖に据え、その思想を取り込んでいったという流れだ。
東の海上にある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に不老不死の仙人がいる、という古くからの神仙思想を基本に、老荘思想や陰陽五行説など様々な要素が入り込み、独自の様相を築いていった。
老子が書いたとされる、老子道徳教の思想の根源は、無為自然(むいしぜん)というものだ。
人はあるがままに生きるべきだという意味で、孔子をはじめとする儒家が唱える、仁、義、礼、智、信の五常の考え方には批判的な立場だ。
老子曰く、五常がもてはやされるのは、現実にはそれらが少ないからであって、大道の存在する理想的な世界においては必要のない概念だという。
例えば、たとえば歴史学者が、過去の文献の中に、立小便を禁じるという法律を発見した場合を想定してみよう。
こういった法律があったとなると、その時代に立小便をする人が多かったと歴史学者は判断する。
つまり、立小便をする人がいないのであれば、それを禁じる必要もないということだ。
そんな老子の有名な言葉の1つが、大器晩成だろう。
聞いたことがある人も多いと思うが、大きな器が完成するまでには時間がかかるように、偉大な人物は大成するのが遅いという教えだ。
荘子(そうし)ってだぁれ?
荘子は、戦国時代の紀元前4世紀を生きた中国の思想家だ。
また、荘子という書物の著者でもあり、本名は周(しゅう)といい、漆園の管理をする役人をしていたことが記録にあるが、生没年など詳しいことは不明だ。
戦国時代は春秋時代からの激しい闘争の時代であり、その中で荘子の厭世的な見方が培われたとされている。
そんな中で思想家となった荘子は、荘子を執筆するが諸侯に使えることはせず、あくまで自由人として超然とした態度を貫いた。
そんな荘子は、孔子を否定していると史記に書かれている。
実際には荘子の中で孔子を批判する場面もあるのだが、孔子の晩年まで続いた探求への努力に対する共感がみてとれる部分もある。
荘子は老子の思想である、無為自然を基本として、さらに自由な逍遥遊(しょうようゆう)の境地を遊んだ。
逍遥遊とは、知を捨てたところに自由な世界が広がるとして、世俗の世界から離れることを薦める思想だ。
また、荘子は老子と共に道教の経典とされており、両者を併せて老荘思想と呼ぶ。
荘子は、万物はとどまることなく変化し続けるとし、その変化を支配する根源の原理を道と概念づけている。
そして、道は限定のないものだが、人間の知は本来の無限定の自然を限定する方向にしか働かないとしている。
だから、選択することを捨てて、全てをあるがままに受け容れることが必要だとする、不知の知の概念を説いている。
道と不知の知は、荘子の思想の基盤となっているというわけだ。
そんな、荘子の特徴は、翻訳することが困難な詩的で自由な言葉と発想にある。
その芸術性は、中国の文学者にも大きな影響を与えたとされている。
混沌の徳
徳が高く、目も口も鼻もない混沌の神のところに南海の神と北海の神が遊びにきた。
混沌は厚く待遇したので、2人は返礼するために人間と同じように混沌に穴を開けてやろうと9つの穴を開けたところ、混沌は死んでしまった。
なぜなら、なにもないのが混沌であるからである。
この世界の本質は混沌であり、無為無策でいることが最上であるとするこの話が、混沌の徳である。
荘周(そうしゅう)夢に胡蝶と為る
荘子は夢の中で胡蝶となった。
そのときは、自分が荘子であることを忘れていた。
夢が覚めると、かつて胡蝶であったことを忘れた。
そうなると、胡蝶が本当の荘子なのか、荘子が胡蝶なのか、よくわからなくなった。
人生がなんであるかの真の意味はわからないという寓話が、荘周夢に胡蝶と為るである。
まとめ
何千年も前の思想家の教えが現代にも残っていることは本当に不思議である。
未だに研究者がいることにも驚きだが、現代にも当てはまる思想があるということがより印象深い。
なにかを悟るような思想が持てる領域まで突き詰めてみたいものだ。
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