「アメリカのデモクラシー」から見える現代アメリカの民主主義の課題、それと民主主義の行末について
はじめに
アメリカの政治状況は不安定さを増しているように見える。
2017年のトランプの当選がまず思い浮かぶだろう。当選するとは多くの人が思っていなかったにも関わらず当選してしまったこともそうだが、その奔放な発言や政策のために多くの人が振り回された。また、対立を煽って意見を異にする人を説得しようとせず、挙げ句の果てに暴力を容認するようなことまで述べてしまう。間違いなく今までいなかったタイプの大統領だったが、何よりもこういった人を支持する人々が相当数いるということに多くの人が驚いた。
そして、この奔放な人がまたもや大統領に当選するかもしれない、というのがアメリカの現状である。
こういったことに代表されるように、アメリカは政治的に揺れているように見える。
流入を続ける移民の問題、薬物の汚染、環境問題、イスラエルとの関係等。他にもあげれば色々あるだろうが、いずれの場合も落とし所を探るというよりかは、対立が対立を煽る感じになっており、歩み寄る姿勢どころかそもそも話し合う姿勢すら見えない。
加えて、ロバート・パットナムというアメリカの社会学者によれば、1960年代ごろからアメリカの、人間関係の副次的効果ともいうべき社会関係資本が減少し続けている。これは平たく言えば、人間関係が生み出す政治活動や起業、地域の治安といったもののことである。アメリカというと、なんとなくそういったことが盛んであるように思えるが、実は減少の一途を辿っており、個々人が「孤独なボウリング」をするように横のつながりが弱くなっているということである。
このことと民主主義とを結びつけて考えるなら、はたしてアメリカ市民の意見は政治にきちんと反映されているのだろうか?異なる考えに触れる機会がちゃんとあるのだろうか?立場を超えて理解し合うことができなくなっているのではないか?という疑問を持つ。
また、政治の方もただ民意を汲み上げるだけでなくて、自身の支持者とは異なる立場をとって説得するということが減ってしまっているのではないかと思う。民意を反映することは重要であるが、どうしても一般市民が先々を見通すことは難しい。であるなら、プロである政治家が時にはそういった姿勢をとることが重要であるが、対立を煽り、意見を異にする人を敵だとレッテル貼りする者に、そういった姿勢が取れるとは思えない。
つまり、アメリカの現状としては課題が山積するなか、一般市民の政治に取り組む力となる横のつながりが弱くなってきており、政治に対して意見の入力が適切に行われておらず、政治の側も意見を異にする人を説得するという基本的なことができていない状況にある、と私は見ている。
今回、現代アメリカの民主主義を考えるにあたり、原点に立ち返って19世紀のフランス貴族であるアレクシス・ド・トクヴィルが1840年ごろに記した「アメリカのデモクラシー」を用いた。この本は、トクヴィル自身が二度アメリカに行き、そこで見たアメリカの民主主義の現状と、そこから見える民主主義の本質についての分析を記したものである。
トクヴィルについてはアメリカの民主主義を高く評価した人物と知られているが、ただ同時に、その著作(特に第二巻)を素直に読めば、民主主義が陥りがちな危険性についても指摘をしており、諸手を挙げてただ称賛しているわけではない。特に、民主主義の二本柱である自由と平等のうち、平等がもたらす問題についてはかなりの部分を割いて指摘している。
この著作は、当時のアメリカの状況・分析の著述として優れているのはもちろん、民主主義の本質を見抜いたものとして現代にも通用する優れた書物である。なので、現代アメリカの民主主義が抱える問題を指摘するために取り上げる次第だ。
ここではまず、現状のアメリカ民主主義における私が問題だと考える部分について指摘する。そして「アメリカのデモクラシー」から民主主義の本質的な部分を紹介し、それを踏まえた上で、再度アメリカ民主主義の問題について議論したい。
そして、民主主義それ自体の行く末についても考えてみたいと思う。これは、アメリカだけでなくヨーロッパにおいても民主主義の行く末に不安を感じているからで、その原因にはアメリカが抱えている問題と少なからず共通する部分があると考えるからだ。
最後に、補論としてそもそも過去の哲学や思想を用いて現代を論じる意味について考えたい。
現代人は過去に比べて進歩していると思っているが、実のところ自分達が思うほどには成長しておらず、似たようなことを繰り返している。逆に、過去は現代が抱える問題の本質を見抜いていることがままある。
なので、ここで一度現在と過去との関係を見直し、真摯に現代の課題に向き合い解決することが可能にするため、その意味を問い直す。
アメリカの現状について
アメリカの民主主義における問題点の一つとして、私は移民の増加に注目している。
合法的な移民は、近年では大幅に増加傾向にあるわけではなく、緩やかなものとなっている。
但し、それでも毎年100万人近くが流入しており、人口に占める移民の割合は1990年の8%から2021年の13.6%に増加しており、今後も流入の拡大に伴ってこの割合は増えるものと思われる。
問題になっている非合法に国境を超えてくる不法移民は、バイデン政権下の四年間で730万人に達するとされている。そういった不法移民は1000万人近くが米国内に滞在しており、今後も増える見込みである。
私が移民に着目する理由は、近年それが問題として取り上げられて対立を生んでいるからだけではない。それが民主主義を揺るがしている大きな要因の一つだと考えるからだ。
アメリカが合法的な移民のみならず、違法に国境を越える者も移民として受け入れようとしている理由の一つに、安い労働力が必要だからという理由がある。
国民の生活水準の向上やサービス業中心の産業への切り替わりによって、従来の鉄鋼業のような産業ではやっていけなかったり、国内生産だと割高になるため、海外の安い労働力に頼らざるを得ないのが現状だと言われている。
労働力の問題を、安価に輸入することによって対応しているということだ。
しかし、すでに知られているようにこれは既存の国民との対立を生んでいる。
特に、元々鉄鋼業のような生産業に携わる人たちにとっては、自分達の仕事を奪った人らが海外から来るようなものだから、快く思うはずがない。流入の一途を辿る移民と、それに寛容な民主党の政策に対し、前述のような人たちが危機感を覚えるのは無理のない話だ。
また、そういった広い意味での移民に頼らざるを得ないような現状において、投票できるかはともかくとして、発言力が高まっていくことは想像に難くないし、そういった層に対して寛容な姿勢を見せることで支持を得ようと民主党がしていることもまた、自然な流れであるだろう。
但し、この施策は究極的には行き詰まると私は考えている。
国内に抱え込んだ安い労働力としての移民は、その後年老いていく。その時、彼らは十分に自活できるのだろうか?直接的な給付か間接的な政策かはともかくとしても、国家として何かしらの対応を迫られる。とりあえず当座の対応としてさらに新たな移民を受け入れる、ということになると当面は大丈夫かもしれないが、結局は問題の先送りとなるだけだ。一国が許容できる人や土地には限界があるからである。
この問題については、移民に対して不満を持つ国民の意見が十分に取り上げられてこなかったという意味でも問題だ。
移民に対して経済的な側面からの不満があることはすでに述べたが、他にもそういった移民が"馴染もうとしない"ことについての不満がある。こういった不満を持つ者の中には、移民としてアメリカに来た人もいる。
"人種のサラダボウル"という言葉があるが、これはアメリカにおいて人種が各々にコミュニティを作って混じり合わないことを言う。ただ混じり合わないだけで、アメリカの一員としてやっていく気構えがあり、かつ他のコミュニティと交流があれば特に問題はないかもしれないが、そのうち帰るつもりの"腰掛け"の移民の場合はどうか?
そのうち帰るのであれば、無理して馴染もうとする必要などない。職場でちゃんと働けばよいのであって、その他の厄介ごとを抱え込む必要がどこにあるだろうか?地域の集まりや発展に貢献するための活動に参加する意味がどこにあるのか?それは致し方ないことであって、けっして非難されることではないと私は思う。
だが、これは民主主義の観点からは大問題である。
特定の集団が自国内に一定数いるのであれば、仮にその人たちが政治に参画していなくてもその意向を無視することはできない。仮にその人たちがアメリカの将来に対して関心がないのなら、長期的な投資や利益よりも、短期的なそれを望むことは想像に難くない。
また、混じり合わないということは、既存の国民、特に移民に対して不満を持つ人々と移民とが意見をすり合わせる機会がないわけだから、対立や反感が深まるのは当然である。
そして、このことについてさらに問題なのは既存の政治家が問題として十分に取り上げてこなかった、という点であり、ここにすっぽり当てはまったのがトランプであると私は考えている。その意味で、別に彼でなくとも、遅かれ早かれ誰かがそこに当てはまっただろうし、彼の登場はある種の必然だとも言える。
流入の一途を辿る移民について、元移民の人が反対の姿勢を示していることを紹介したが、こういった差別的でない賢明な理由からの反対者も、"移民に対して差別的な、非アメリカ的な人"としてひとまとめに批判される。こういったレッテル貼りが、特に近年酷いように思う。意見を異にする相手に対して攻撃的に批判するのは保守・リベラル、いずれの立場にも見られる現象である。
相手の主張に耳を傾けず、対立を煽るこの手法はわかりやすく支持を集めやすい。相手の立場を理解するよう勧めたり、時には譲歩することを説くよりも受けがいいのは明らかだが、それだけが理由ではないように思う。
支持集めの寄付が昔は各戸に赴いて説明し説得したのに対し、現在では一方的にダイレクトメールを送りつけるようになっている。理由は簡単で、各戸訪問よりもコストが安く効率がいいからだ。統計的に効果を割り出して集中的にそれを行うことにより、コストをかけずに最大限の目的が達せられる。これは、インターネットの普及とパーソナライゼーションによってさらに効率化が進んだ。
このことは、言い換えれば相互的な政治から一方的な政治へと変化したということになるだろう。まどろっこしい説得より、手っ取り早い方法の方が良いと言うわけだ。自分の思想に近い考えや、注意を喚起するような話題が効果的に供給され、そうでない思想に触れる機会が減少するなら、対立が煽られるような政治が流行るのも無理はない。
そこに説得はなく、あるのは迎合だけだ。それは、先回りして自分が好む意見や施策を供給してくれる心地の良いもので、意見を異にする人や思想をわかりやすくまとめてくれている。
この現象に効率化と統計の発展が果たした役割は大きい。これにより、そういったものをうまく活用した者は効率的に支持を得ることができるようになった。但し、そこには対立を諌める要素は存在しない。先回りして受け入れやすいものだけを並べてくれる、その延長線上に立場を異にするものへの理解につながるものはない。なぜなら、それは効率的ではないからだ。
以上のように、現代アメリカの民主主義の問題点を移民問題を切り口に論じた。
詳しくは後述するが、この問題点の改善には"自分達の問題は自分達自身で解決する"ということが必要であると私は考えている。自国の問題を国外の資源で賄うような安直な方法で解決しようとするならば、問題が見えにくくなり、結果的に先送りにしてしまうことになるからだ。
いずれにしろ、移民がうまくいっていたのは過去の話で、ただ移民を受け入れれば即アメリカ的で素晴らしいことだというのは、形式論にすぎると私は思う。
「アメリカのデモクラシー」から見る民主主義の姿
民主主義は一般の市民が政治に関わるものであるが、平等の世紀は忙しくそれを実践することは難しい。
人は忙しいとどうしても近視眼的になり、すぐに成果をあげたがるようになる。
特に平等の世紀においては人々の生活は不安定である。平等であるということは、身分制と異なって決められたことだけを行なっていれば良いというわけではない。定められた役割がない以上、自分でそれを探し出し、それを実践する必要がある。
となれば、忙しくもなるし、不安定な立場である以上、近視眼的に眼前の利益を得ようとするのは無理もない。但し、この場合は長期的な視野に立った、将来的な利益を得ようとする姿勢を求めることはできない。これは、民主主義最大の欠点である。
また、平等の世紀においては、人々は自分のことのみを考えがちで、他者に対しては無関心となる。
自分と他者は平等であるがゆえに同じであるから、わざわざ知ろうとはしない。一般的な観念で理解可能だと思い込むので、わざわざ関心を寄せたりせず、自分や自分の周りの人への関心に留まる(個人主義)。
このような近視眼的で狭い範囲にしか関心を持たないことは、政治や社会にとってマイナスである。逆に、長期的な視野に立って他者への関心を持ち、そういった施策を推し進めることが自分の利益になることを理解させなければならない。
それが「利益の正しい理解」(アメリカのデモクラシー 第二巻(上巻)P.211)である。これを得るためには、一般の市民を公的な仕事に関わらせる必要がある。
加えて、宗教はこういった一般市民の近視眼的な傾向とは反対の傾向を持っており、その点で、民主主義にとって悪影響があるその傾向を抑制する効果が期待できる。
また同じような観念、つまり宗教・思想・慣習・伝統のようなものを多くの人が共通に抱くことがない場合、社会というものは成立しないとトクヴィルは述べている。
こういったことから、民主主義において宗教や、他者を結びつける繋がりになるようなものが非常に重要であることがわかる。
平等の欠点の一つに、権力の集中の問題がある。
一見平等とは真反対のことであるように思われるが、平等な社会では個人は無力で他者も同じであるから、頼れる者はいない。となれば、頼れる者は自分たちが権力を与えた政府しかいない。
権力者に多くを任せて頼ろうとするなら、権力の肥大化は避けられない。それは自分たち自身で物事を解決しようとする自発性が失われ、自由も失われることになる。
これが、自由を望む人たち自身によって行われる、というのがこの問題の根深い点である。
ここまで紹介したように、民主主義の二本柱である自由と平等のうち、平等には自由を阻害する傾向がある。しかも、トクヴィルによれば民主社会に生きる人々は、自由よりも平等に対して並々ならぬこだわりを持っているという。
すでに述べたように、平等な社会において一個人は無力である。また忙しく周りを見ている暇もない。となれば、権力、すなわち制度的なものに頼ることは必然である。しかし、これは同時に自分達で物事に取り組むことをやめてしまうということであり、それは自由を行うための自発性もその手段も弱らせてしまうことを意味している。
すなわち、民主主義においては平等が推し進められ、平等によって自由を行使する機会が減少することが基本的な傾向である、ということだ。
これに対抗して自由と平等との釣り合いを取るためには、地方自治が鍵となる。
仮に連邦政府が各州の実情や意見をかえりみずに、思想や法を押し付けてもうまくいかないだろう。
当然、各州はもちろん、より小さなコミュニティはそれぞれの文化・風習を持っているし、それに根差した価値観も持っている。それを上から一律の法律によって変えさせよう、強制しようというのであれば、うまくいかないだろう。
それは各州の反発を招くだけでなく、空疎な施策となってしまうだろう。
そして、連邦政府の行為の頻度は稀で、その権力は不完全でなければならない。
以上が、トクヴィルが記した「アメリカのデモクラシー」が示す、民主主義の本質的な姿である。
「アメリカのデモクラシー」から見る現代アメリカの問題点
「アメリカのデモクラシー」を踏まえた上で、現代アメリカの民主主義の問題点を指摘したい。
トクヴィルは、宗教に自分勝手になりがちな人々を矯正するものとしての価値を認めている。当時のアメリカにおいては、キリスト教がこのような効能を持っているとして高く評価しているが、近年アメリカでは無宗教を自認する人が増えている。
この63%が多いか少ないかは議論の余地があるだろうが、教会の出席率に目を向けてみるとカトリックとプロテスタント、いずれも50%を切っている。
加えて、トクヴィルが評価した宗教の効能は、その教義の実践によってもたらされるものであり、忙しい日常から離れて心落ち着かせて周りや将来に対して目を向けさせるものである。よって、ただ単に自分がいずれかの宗教に属しているという認識している人が多い、というだけでは不十分である。
教会に出席していることを教義の実践に熱心であると見做した場合、単純計算するとアメリカの人口に対してそういった人は35%もいないことになる。
宗教には「共通の観念」としての役割がある。「共通の観念」なしに「共通の行動」はなく社会にまとまりが欠ける。
もちろん、宗教以外にも思想・伝統・慣習といったものが「共通の観念」として捉えることができるが、アメリカにおいては宗教が主にそれを担っていて、かつある種の指針として機能していることを考えれば「共通の観念」として第一に挙げるべきものであるだろう。
まず問題なのは、この宗教が弱くなっていたり、多様になっているということである。
さらに移民の流入の問題がある。
移民として入国してその土地に馴染もうとしているなら問題ないが、そのうち帰ったりするような"腰掛け"の移民の場合、そういった「共通の観念」など持つだろうか?そういった人々が増えるにつれて社会にまとまりがなくなるのは自然なことのように思われるし、既存の市民との軋轢は深まるばかりだろう。そのうち帰るのだから、長期的な取り組みは彼らには関係のない話で、既存の国民とは利益相反となる。
「共通の観念」が失われるにつれて、権力を握る政府の力が増大することは避けられない。互いに交わる共通点としての「共通の観念」が失われるなら、問題を自己解決することは困難になり、法に頼るのは必然で、それを運用する政府権力が増大することは避けられない。
自分達が行えなくなったことを政府に任せる、これを繰り返すにつれて、人と人との繋がりが弱くなり自発性も衰える。
結果として、政治に対して意見を受け入れさせることが難しくなり、他者と触れ合うことが少なくなるわけだから、意見を異にする人との対立は深まるし、他に方法がないのだから、法と政府の力が強くなって個人に特定の思想を押し付けることになる。
特に、アメリカのように州が集まって構成される連邦国家の場合、連邦政府が画一的な法や思想を各州に適用しようとするなら、各州の事情をある程度無視する結果にならざるを得ない。主旨が良いものであれ悪いものであれ、結果としては個人の自発性を弱めて政治に訴える機会を奪うことになるだろう。
宗教の衰退や移民の流入に伴って「共通の観念」が徐々に失われつつあるように思われる。それだけでも民主主義にとっては問題だが、それによってますます連邦政府は大きくなり、結果として個々の自由や自発性を奪う結果を招いている、そういった問題があるということだ。
また、システムとしての行政に任せることは、個々人で問題解決をしようとするより効率的であるだろう。しかし、そうなれば「利益の正しい理解」は得られない。そうなれば政治や行政への理解、長期的な視野に立った判断など望むべくもない。
そして、連邦政府はますます大きくなる。民主主義は一般の市民が関わる政体である。それはつまり、素人が意見を挟む余地があるということであり、手間がかかるものであるということだ。つまり、効率化とは対極に位置する政体と言って良いだろう。
完全な効率化を目指すなら民主主義をやめるべきだが、そうなれば当然個々の自由は弱くなる。仮に、個々の自由を重視したい、市民の意見を政治に反映したいというのであれば、手間というコストを受け入れなければならない。これはトレードオフの関係である。
つまり、過度な効率化を求めることは民主主義の本質に反している。
では、ここまでの議論を踏まえてどうすれば良いのかを考えたい。
まずは失われつつある「共通の観念」の復興と、それが可能な環境づくりが必要となる。各州やコミュニティの宗教や伝統といったものに最大限配慮し、一括りに法や思想を上から押し付けないようにすべきである。
ただ、昨今では上から(連邦政府から)の改革が推し進められることが多いように思う。致し方ない面もあるとは思うが、基本的にこのやり方は自治とは正反対のものであることから注意を要するし、現代アメリカにおいてはそういった各自治体の差異を考慮した、極めて慎重な連邦運営が必要となるだろう。
また、流入し続ける不法移民についてであるが、仮に彼らが既存の市民と利益相反の関係にあるとしても、その発言を封じれば良いとは私は考えない。特に安い労働力として受け入れている移民は、場合によっては過酷な経済状況・生活環境に身を置かなければならないだろう。仮にそういった立場の意見を汲み上げないのなら、それは社会に不満と問題を抱えることとなり、いつの日か彼らが担う社会の機能が破綻をきたすだろう。
しなければならないことは、国内の問題を安易に海外の資源で解決しようとしない、つまり自分達のことは自分達で解決することが今のアメリカの民主主義には必要だと私は考える。社会の各機能を担う人々が声を上げて政治に訴えることができる必要があり、かつそれは短期的な利益のみならず時に長期的な利益の視点に立ったものであることが望ましい。であるなら、その機能を担うのは今後もアメリカ国民としてやっていこうとする人々であることが望ましい、ということである。
また議員の選挙にも工夫が要るだろう。
連邦議会の上院は1913年まで、各州議会の中から選ばれた人が上院議員となっていた。このような選出方法であれば、単にその時々の雰囲気ではなく、実務者の中から選出されるわけだから、長期的視野を持ったより良い人物が選出されることが期待できる。
※この規定は1913年の憲法改正によって直接選挙に改められた
トクヴィルは下院に低俗な人々が集まっているとして批判的であったが、上院には傑出した人々がいるとして評価していた。
一般的な気分・雰囲気・熱情で選ぶ人達と、より理性的かつ実務に根差した観点から選ぶ人、それぞれの階級が対等に政治的な自由を行使する、その釣り合いを取るものとして評価できる制度だということだろう。
現状を鑑みるに、後者の視点のような、一時的なそれに基づく言説に対抗するものとしての代表者を選出する仕組みが、今現在のアメリカには必要なのではないかと私は考える。
以上が、「アメリカのデモクラシー」から見た現代アメリカにおける問題点とその解決・改善策である。
民主主義の行末について
現代は必要性の時代であるといっていいだろう。戦争はもちろん、環境問題、先進諸国であれば少子化など、世界全体が課題に直面している。こういった現状から読み取れる民主主義の課題とその行く末について議論したい。
今までは自由や権利ばかりが言われてきて、そういった必要性の問題は蔑ろにされてきた。自由や権利が重要なことは言うまでもないが、だからといって必要性の問題を放置して良いわけではない。自由・権利と必要性の問題はバランスであって、どちらかだけに取り組めば良いものではないが、必要性を克服せずに自由も権利もない。つまり順序としては必要性に取り組む方が先である。
もちろん、必要性の問題を皆ただ放置してきたわけではない。少子化や労働力不足に対し、欧米諸国は移民という形で対策をしてきた。特に、ブルーカラーの仕事が先進国では忌避されることや、安い労働力として便利だとして、そういった人々は利用されてきた。
だがそれは、私がみたところ問題を見えにくくするだけでなく、問題を先送りするような結果を招いてしまっている。そして、それは政治に対して意見がきちんと反映されていないということでもある。
トクヴィルは皆が皆政治に対して十分な知識を持つことはできないと述べている。それは、究極的にはある意味での貴族制でしか実現できないだろう。
民主主義社会は、実のところ究極的には貴族制を指向するように私には思える。
市民は平等を強く求め、そのために知識を得て活動をするための余暇が欲しい。当然、必要から逃れて楽になりたいという根源的な欲求もある。
誰かが必要性から逃れているのであれば、自分だってそうしたい。だって平等な世の中なのだから。そういった要望に対して権力が真摯に応えようとすれば、誰かに必要性の問題を押し付けるしかなくなる。
平等を推し進めようとすればするほど、押し付ける対象は外部のものになる。言い換えればこれは必要性の外部化とでもいうべきものだ。
※実際には、それが可能な国力があるかどうか、そういった権力構造であるかが問題になる
要するに、私の言う貴族制というのは、"必要性の問題を自分達で解決しないで済ませられる体制"という意味合いである。
自分達が抱える問題や、やりたくない労働を自分達自身で解決しなければならないのであれば、そういった問題が社会に知られて理解される機会は大いにあるだろうし、解決に向かうことも望める。
ただ、そこでその解決の方法として海外の安価な資源に頼る、といった方向に流れてしまうのであれば、問題それ自体が知られる機会は減るし解決に向かうことは望めない。一時的な問題であれば良いが、社会の構造的な問題であればその問題が一時的には解決されたように見えて、覆い隠されてその問題が残り続け、解決が先送りにされてしまうことになるだろう。
ここで重要なのは、元来自分達自身で担っていた必要性の問題が、自分達の目の届かないところに移ったということである。もちろん実際には、その問題は自分達の足元にあって時限爆弾のように時を刻んでいるのだが、それを把握している人がほとんどいない。なぜなら、それを教えてくれる人は発言力がないか、そもそも海外にいて声が届かない。
通常であれば必要性の問題を放置すればたちまち社会は立ち行かなくなる。しかし、それを海外の資源で安価に賄えてしまえばどうか。まるで問題など存在しなかったかのように(無論そうではないが)社会は回ってゆくだろう。
ここで重要なのは、民主主義社会において問題が問題として存在するためには誰かがそれを訴えなければならないということである。そしてそれは有権者であることが望ましい。
そして、仮にこのように問題から目を背けてしまうことが可能になればどうなるだろうか。
必要性の問題は存在しないのも同然であるから、その他の問題に熱中することになるだろう。この場合、理念や理想といった必要性とは真反対の問題ばかりが取り上げられるようになるのではないだろうか。理念や理想が悪いわけではないが、自由や権利、それと必要性の関係がバランスをとらなければならないものであるのと同様に、それらも必要性との兼ね合いである。必要性との兼ね合いを無視して議論される理念や理想は空虚である。
ここで心配すべきは理念や理想、哲学のような問題それ自体に人々が囚われることではない。どちらかといえば必要性の問題を、理念や理想の問題と取り違えることだろう。
そうやって問題を取り違えてしまうと、必要性の問題の歪みがどんどん大きくなる。無論、必要性の問題を意識しないからといってその問題が自分達に関係ないというわけではない。さらに外の資源で補填して釣り合いをとる必要が出てくるだろう。これを繰り返していくと、補填は所詮補填でしかないし、問題それ自体を放置しているわけだから、時が経つにつれて問題は膨らむと考えるのが自然である。
補填をしているのになぜ気がつかないのか。それは問題を取り違えているからで、場合によっては形を変えて資源が輸入されるからだ。
安い労働力が輸入されることを考えてみよう。必要性の観点からすれば、既存の市民の生活を脅かす問題であり、既存の市民がしたくない低賃金で負荷の高い仕事を誰にさせるかという問題である。理念や理想の観点からすれば、労働機会の提供といった問題であったり、アメリカであれば移民の国なのだから受け入れるのは当然といった話になる。
安い労働力を海外で使うとなれば、労働者として輸入されるわけではなく、製品やサービスといった形で輸入されるわけだから、問題それ自体とは形が変わってしまっているので、問題を把握しづらくなる。
実際、現代アメリカの移民の問題はこのような問題の取り違えによって、保守とリベラルとの間で争いが起きている側面があると私は考えている。
民主主義社会は貴族制を指向する、と述べたが、それは一部の人が多数を抑圧するといった意味合いではない。
まずそれは、必要性の問題を自分達で解決することなく、誰かにそれを押し付けたり、安易な方法で済ましてしまおうとすることから始まる。そして、これを可能にするのが国力の差であり、そういった補填の結果としてこの体制は拡大していく。
これにより、民主主義社会の市民は必要性の問題に煩わされず、ある意味で克服したことになり、思う存分理念や理想に熱中することができるのである。これは一国の中で実現されるものではないから貴族制ではないが、仮想的な貴族制とでもいうべきものになる。
私が貴族制というのはこの意味でである。
だがこの貴族制はいつか破綻する。なぜなら必要性の問題は解決しないからであり、資源には限りがあるからだ。そして、これを是正するのは必要性の問題を自分達自身で解決しようとすることによってである。
無論、全部が全部自分達自身で解決できるとは限らないが、問題を問題として捉えるためにはまず自分達自身で解決しようとすることが必要である、ということだ。
民主主義は短期的な観点と長期的な観点が必要であり、必要性と理想や理念とのバランスを取らなければならないので、極めて難しい政体である。どちらか一方でなく、両方と釣り合いを取らなければならず、それは折り合いをつけるということだ。昨今、この折り合いをつけるということが欧米ではできていないように思う。詳しくは別の機会に論じたいと思うが、理想や理念からの観点ばかりで必要性の観点が抜け落ちているし、と思えば感情や感覚に根差した単純な倫理観を振りかざして冷静な議論に結びつかないでいる。
トクヴィルが言うような、長期的な視野を持たせて熱狂に冷水を浴びせかける宗教、社会をまとまらせる「共通の観念」、それらの復権がどうしても必要である。宗教の復権は難しいだろうが、慣習や伝統といったものは未だ根強くある。その恩恵を受けない人はいないだろうから、それを受け継がせるということが重要になるかもしれない。それは長い過去から連なるものであるからこそ、現在の軽はずみな振る舞いを諌め、また遠い先に視線を向けさせることが期待できる。その場合に気をつけなければならないのが、いいとこどりをさせずにその罪や責任も受け継がせるということである。つまみ食いだとどうしても浅いものになってしまい、「共通の観念」として重厚なものにはならない。
昨今では技術や合理性をやたらと持ち上げる風潮があり、特に技術についてはあたかも技術信仰とでもいうべきものになっているが、それらは「共通の観念」たり得ない。技術は人々の思想の具現化であって全く客観的なものではないし、人々を戒めたりもしない。技術を突き詰めれば人類が幸せになるかのようなIT業界の言説は、効率化の追求を人間性の完成への追求と取り違えたものに過ぎないし、実のところ大した根拠はない。
また、最近では何かといえば合理的という言葉がもてはやされるが、それは一見したところ「共通の観念」たり得そうで実際にはそう長くは持たない。
合理的な結びつきはその目的が達成されれば終わる。実現不可能な目的は非合理的だからそのうち終わりが来てしまうし、比較不可能なそれも非合理的だから、その結びつきは常に比較されてより良いものがあればそちらに移る。これが合理性である。つまり、永続性に欠け不安定なのが合理的な結びつきである。
ここまでの議論で、民主主義は小さな国か、多数の国からなる連邦制でなければうまくいかないように思える。実際に、トクヴィルが評価したアメリカの民主主義はそのようなものであった。
いずれにしても、必要性の問題に自ら取り組むことが必要であるし、昨今の多様性ブームのように、性急に一律の観念を上から押し付けるのではなく、結果としての多様性を実現すべきである。それは動機としては正しいものであるだろうが、方法論を間違えればいたずらに混乱を招くだけであり、結果としてただの自己満足で終わるだろう。
ここまでの議論で、私は民主主義の行く末としてある意味での貴族制の姿があることを示した。もちろん、そういった体制が可能なのは一部の国に限られるし、これはそのうち破綻する体制でもある。
今現在の民主主義体制の先進各国が直面しているのがこの問題であり、長年放置し続けてきたツケが回ってきたのだと私は捉えている。これを乗り越えるためには、安易な方法で問題に対処するのではなく、しっかりと正面から向き合うことが必要であり、今一度「共通の観念」が何かを見つめ直さなければならない。
さて、トクヴィルが著述した過去のアメリカと現代のアメリカとではその状況が大きく異なる。過去のアメリカはまだ東岸にとどまっており、州の数も少なく、人種や宗教もこれほど多様ではなかった。また、二度の大戦を経てアメリカを取り巻く外交関係は過去の孤立主義的なそれから大きく変わっており、それに伴って連邦政府はその権能を拡大している。
よって、過去のアメリカに対して行われた調査である「アメリカのデモクラシー」をそのまま現代のアメリカに当てはめるのは間違いだろう。もはや別の国と言ってもいいかもしれないし、そうであるなら別の民主主義の形があるべきだろう。
しかし、その民主主義のエッセンスは異なる環境や時代においても通ずるものがある。ここまで取り上げたトクヴィルの言葉はそういったものを選んだつもりである。
これ以外にも興味深い指摘(特に文化について)が数多くあるので、できれば読んで欲しいと思う。基本的には平易な文章で書かれており、そう難しくはないだろう。
最後に、ここまでの議論は民主主義がどうあるべきか?の観点に限られており、特定の問題、例えば気候変動問題解決に有用であるとか、日本の外交安全保障にとって有益である、といった観点とは全く何の関係もないことを申し添えておく。
民主主義はその国家に属する人々の意思を政治に反映させることがその本質であって、例に挙げたような問題に対して必ずしも有用なわけではないし、それはその国家の市民がどう判断するかにかかっている。その意味で、極めて難しい政体なのである。
補論 : 過去に現代の問題を投げかける意味
通常、過去の誰かの言葉を用いる時、"説得力を持たせるため"だとか、同じ論理や理屈を手間をかけて論証すること(車輪の再生産)を避けるためだ、と説明される。
もちろんこういったことも大事なのだが、より本質的なことを考えたいと思う。
なぜこのようなことを考えたのかというと、トクヴィルのような偉大な思想家の著述を読むと、現代が過去より優れているとは到底思えないからだ。
はるか昔に既に指摘されたことを未だ解決せずに放置し、また一度解決したと思いきやまたちゃぶ台返しをして、問題を蒸し返しているのが、現状であると私は認識している。
偉大な著述家は、現代が抱える問題をそれが起こる前から指摘していたりすることがある。それは直接的であったり間接的であったりするが、いずれにしても本質を捉えればこそできることである。
このことを起点にして考えると、我々が知識の積み重ねだと思っていることが、実はただの事実の積み重ねに過ぎないのでは?との疑問に至る。
我々は通常過去に対して優っていると信じている。それは知識において勝っていることによるものなのだが、実はそれは大して根拠のないことなのではないか?ということだ。
また、先の説得力云々も車輪の再生産も、過去の知識を"使う"という、ある意味での上から目線のものである。つまりそれは、過去は未来のための肥やしに過ぎないと見做しているいうことだろう。
だが、それが間違いだとしたら?
我々が知識だと信じ込んでいるものが単なる事実の積み重ねに過ぎない、いわば塵芥(ちりあくた)でしかないのだとしたら?
この仮定を基にして考えると、我々が積み重ねたものはめくらましに過ぎないのかもしれない。過去より優れているという幻想に浸っているだけなのかもしれない。
だとすれば、めくらましのない過去の方が先が見えているのは何も不思議でもない。いや、物事を深く見て、本質を見抜く力があることが不思議ではないと言うべきだろう。
現代人は、積もり積もった事実の上にあぐらをかいて過去を下に見ているから、これから積もるだろう事実に期待をして上を見上げてばかりいる。物事の深層である本質から目が逸れてしまっているのだ。
しかし、過去の人(特に偉大な人)にはそのような積み上げはないから、そんな愚にもつかないことよりも、じっと自分たちの足元を見て物事を深く見ようとした。
もし仮に単なる事実の積み重ねに意味がなく、例え新しい発見があっても本質的に大きな意味を持つものがわずかに過ぎないとしたら、我々と過去の人々との間に優劣はほぼないといって良いだろう。
これを前提に、我々が過去のモノを用いて現代を論じることの意味を改めて考えてみる。
それは、端的に言えば、未来が見えないからこその曇りなく本質を見極めようとする厳しい視線に、現代を評価させるということである。そして、過去と現在との違いは、どちらの方がより本質に迫ることのできるのか、である。
もし仮に、自分が今トクヴィルと同じ机に向かい合って座り、民主主義について議論しても全く勝てる気がしないし、圧倒されるだろう。それほどまでに彼の洞察は深く、驚くほどシンプルで突き刺さるものがある。また、彼の死後の出来事は彼の見解を揺るがすものではなく、むしろ補強するものですらあるだろう。
もし我々が、現代が過去よりも優れているという先入観や既成概念を捨て、積もった塵芥に過ぎない事実を視界の外に追いやった時、真に過去と向き合う意味を理解できるのではないだろうか?
時間の経過に大して意味がないのなら、過去と未来は一方通行ではないし、差があるわけでもないことになる。
つまり、実は同じ平面に位置した対等なものであるとして認識を改めると、未来は過去から受け取るだけでなく、未来から過去にボールを投げることができることに気がつく。
このことこそが、我々が現代を考えるときに過去と向き合うことの意味である。
それは、過去からの本質的で鋭い視線に現代を晒すことであり、過去に現代を問うという、真に本質的で、現状を理解するために必要な真摯な姿勢なのではないだろうか。
そして、過去に投げた問いを現代が受け取った時、過去との対話が成立する。
この対話こそが、我々が過去のモノを用いて現代を論じることの真の意味なのではないだろうか。
そして、ここに至って初めて、未来への道筋をちゃんと立てることができるのではないだろうか。
トクヴィルは、アメリカの文学より古代のそれの方が優れているとした上で、こんなことを言っている。
もし今我々が崖から落ちそうになっているのなら、くだらない思い上がりを捨てても良いのではないだろうか。
特に今はその時だと思うのだが。
参考文献
アメリカのデモクラシー第一巻 上・下(1835年)アレクシス・ド・トクヴィル
アメリカのデモクラシー第二巻 上・下(1840年)アレクシス・ド・トクヴィル
孤独なボウリング(2006年)ロバート・D・パットナム
「米国を支える移民」(令和5年10月号)財務省広報誌 ファイナンス
「バイデン政権下で流入する730万人の不法移民」(2024.04.15)第一生命経済研究所 経済分析レポート
「800万人が不法就労するアメリカ それが容易には変わらない理由」(2019.01.28)The Asahi Shinbun GLOVE+
「宗教離れ進むアメリカ、キリスト教信者は10年で12%減少」(2021.12.16)Forbes JAPAN
「ギャラップ社、米国の教会出席率発表:カトリック低下、プロテスタント横ばい 人口比では逆の結果に」(2018年5月6日)CHRISTIAN TODAY