あなたに答えは贈らない。あなたにひとつの問いかけを贈る。 ~谷川俊太郎著「はるかな国からやってきた」のこと
これはとても有名な夏目漱石の「草枕」の冒頭の文章です。
そして漱石はそのあと、次のように続けるのです。
谷川俊太郎は本書にも収められている処女詩集「二十億光年の孤独」の表題作の中で、言うのです。
この世界に、万有引力の法則に支配されていない人はいません。そんな人はこの地上に立っていることができませんから。たとえ科学に興味がなかったとしても、僕たちはみな物理的法則という客観的な世界の中にいるのです。
しかしその一方で、僕たちは「自分」という世界に存在しています。ある人が物理学者になり、ある人が詩人となり、ある人が政治家となり、ある人が世捨て人になり、ある人が世界を変えようとするように。
何を大切に思うか、何にこだわるのか、誰を愛し、誰を憎むのか、それは僕たち一人一人の主観の問題です。
「詩」とは、その主観と客観のはざまに「言葉」という旗を立てることだと思うのです。「俺はこう思う」「これが真実だ」と。
あくまでも主観に過ぎないその「言葉」が、もしも多くの共感を得られたなら、その「言葉」は「詩」という客観性を持ちうることができる。
とはいえ、「詩」のように客観性を持つ「言葉」のようなものは、「詩」以外にも存在します。
例えば「常識」「場の空気」「マナー」。そういったことを振りかざす人たちは、まるで聖書を読むかのような尊厳な態度で、こう言うのです、
「なんだお前、そんなことも知らないのか」と。
もしも僕が地上100メートルのところから落っこちてしまったら、万有引力は僕を地面にたたきつけ、粉々にしてしまうでしょう。
僕がどんな夢や希望を持っているか、僕に愛する人がいるかどうか、そんなことはお構いなしに。
ある人は「地上100メートルの命の危険があるところで命綱もつけていないなんて、愚かだよ。自業自得だね」と言うでしょう。
いかにも客観的であり、論理的であり、正論であり、それ故にその言葉は、とても空しい。
とは言え、逆に「100メートルのところから落下してしまうのはおかしい」なんて言い出せば、「おかしいのはお前の頭だ」ということになりますね。
どう説明されても僕自身が決して納得しなかったとしたら、きっと誰もが「じゃあもう、勝手にしろ」となるでしょう。主観的な世界の中で「自分は死なない」と信じるのは夢があって愉快ですが、それを他人に押し付けることはできませんから。
我を押し通せば顰蹙を買って孤独になります。かといって、自分を押し殺して他人に振り回されるのは、なんだか空しい。
言葉にはさまざまなものがあります。その中で「世界」と「私」、「共感」と「孤独」、あるいは「正論」と「暴論」の境界線に立つということ、それが「詩」を書くことだと思うのです。
本書は谷川俊太郎が18歳の時に書いた「傲慢ナル略歴」という作品から始まります。
18歳の少年が幸せを謳歌し、この後も幸せであるだろうと希望を持つこと、それを「傲慢」だと自虐すること。もしかしたらそれが、漱石の言う「人の世の住みにくさ」なのかもしれません。
「とかく人の世は住みにくい」。それで終わってしまえば、その言葉は「詩」とはならないでしょう。その言葉はむしろ、ある種の「答え」です。客観的な視点からあきらめているか、主観的な視点から嘆いているか、そのどちらかでしかありません。
引用した漱石の文章は「草枕」の最初の一ページです。「住みにくいと悟った時、詩が生まれ」る、ということは、もっと大事なこと、物語はそこから始まるということです。
谷川俊太郎はそのことを、次のように表現しています。
この世界にはたくさんの「言葉」で溢れています。そして僕たちももちろん、多くの「言葉」を口にします。その言葉のほとんどが、生まれた瞬間に消えてゆく。
それは、それらの言葉が「答え」だからなのかもしれません。「孤独」か「空しさ」か、そのどちらかでしかないからかもしれない。
もしもこの世界に「答え」しかなかったとしたら、その世界はきっと「住みにくい」ものでしょう。
でもこの「住みにくい」世の中を、傲慢な態度で「オモシロオカシク」やっていくのもいい。
「オモシロオカシク」やっていると、そこには「詩」が生まれます。その言葉は、「答え」なんかではないから。
そんな「詩」に触れられたら、この世の中は少し「住みやすく」なるのかもしれない。
最後に本書に収められた詩の中から、僕の一番好きな詩をご紹介。
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