僕の幸せとあなたの幸せは同じテーブルに着くことができる ~ジェラルド・ダレル著「虫とけものと家族たち」のこと
1930年代にイギリスからギリシャの小さな島であるコルフ島に移住した一家。おっとりした母に気難しい芸術家の長男ラリー、銃器マニアの次男レズリー、おませな姉マーゴ、そして語り手である10歳の少年と彼の飼い犬であり親友でもあるロジャー。
語り手である少年の家族たちも風変りながら、コルフ島の住民たちも長閑な人ばかり。しかも長男ラリーが家に少し変わった客人たちをひっきりなしに招待してくるのですから、家の中はなんだかいつも大賑わい。
そしてなによりも少年は虫や植物、動物たちを観察するのが大好きで、しょっちゅうロジャーを連れて外に飛び出してはコルフ島の生きものたちと触れ合います。
本書はそんな、個性豊かな人間たちと動物や植物たちの物語です。
解説において、訳者である池澤夏樹はこう言っています。
「幸福の定義について哲学者たちは古来いろいろと理屈をならべてきたが、実例を出すという一番わかりやすくて簡単な方法をとったものはいない。たぶん哲学者たちはあまり幸福ではなかったのだろう。ぼくたちはみんな幸福な人間と知り合いになりたいと思っているのだが。
ここに一冊、幸福の典型例を書いた本があって、イギリスをはじめとするいくつもの国で、たくさんの読者を集めてきた」
この物語は正しく、「幸福とはなにか」ということを読者に教えてくれるでしょう。
本書の中で特に僕が好きなのは食事のシーン。ラリーが呼んだ芸術家の友人たちが主人公たち家族と一緒に食事をするのですが、その際、同じテーブルに着きながら、みんながてんでバラバラな話をしているのです。
ある者は作家のロレンスについて話をしているのだけれど、それを聞いている者はそれがアラビアのロレンスの話だと勘違いしていたり、ある者はただひたすら自分のことを誰も聞いていないのにもかまわず話していたり…。
みんなバラバラだけど同じひとつの場所にいる、このシーンは主人公がコルフ島で感じた自然そのもののような気がします。
蜂も、カブトムシも、犬も、亀も、人間も、みんなそれぞれコルフ島という自然の中でバラバラに生きながらちゃんと共存しているということ、それが自然の美しさであり素晴らしさなのだと思うのです。
そしてもしかしたら幸福の風景というものも、そういうものなのかもしれません。
なにが幸福か、なんてきっと人それぞれバラバラなものなのだけれど、でも、僕の幸せとあなたの幸せはちゃんと同じテーブルに着くことができるということ、バラバラなままでもちゃんと共存できるということ、それが最も大切なことだと思います。
ところがただ一点、この愛らしい物語には重要な欠点があります。それは、舞台であるコルフ島をあまりにも素晴らしいユートピアのように描いているということ。だからこの物語を読んだ人の多くが、自分もまたコルフ島に訪れてみたい、という衝動に駆られてしまうのです。
え、それのどこが欠点なんだよって、そう思いますか?
著者の妻がのちの回想で述べているのですが、この物語が多くの人に読まれるようになったことでコルフ島は有名な観光地となったのでした。
そのことがもたらしたこと、それは、かつて彼らが癒され、目を輝かせたあの多くの自然が破壊されてしまうことだったのです。
だから今ではもう、この物語に描かれたようなコルフ島はどこにも存在していません。この物語は、そうなってしまう引き金となってしまったのです。
……でもね、もしかしたらそれも、仕方ないことなのかもしれない。
なぜなら「幸福」というものはいつだって、いつかたどり着けるかもしれない未来か、あるいはもう取り戻せない過去のことかもしれないから。
それでもこうして一冊の中にそれを閉じ込めておけたということ、もしかしたら、それ以上の幸福を望むなんて、欲張りすぎなのかもしれない。
そんな風に思うのです。