お金で買える幸福の果てに
「北朝鮮ミサイル開発を支える旧統一教会マネー4500億円」
という「文藝春秋」<一月号>の記事が世間を賑わせています。
米国防総省情報局(DIA = Defense Intelligence Agency)の報告書が機密解除されて流れたという情報。確かな筋からの情報といえるでしょう。
1991年に4500億円、1993年に300万ドルが金日成北朝鮮国家主席 (1912-1994) との対談実現の謝礼として文鮮明統一教会教祖 (1920-2012) から支払われて、統一教会と北朝鮮の蜜月は始まったのだとか。
文鮮明は北朝鮮出身でした。故郷に錦を飾ったつもりだったのでは。
1990年代と言えば、北朝鮮において未曽有の大飢饉が発生していた頃。
北朝鮮の核所有をめぐる議論が姦しく世間を騒がせていて、何百万規模の飢餓が発生していました。
こういう図式が明確に描けるわけで、拉致問題解決に何の進展も起こりえないのは当然のこと。
文鮮明がどういう人物なのか、「文藝春秋」これまでも特集を組んでネットでは分からない情報を公開しています。
2022年10月号では、文鮮明が気に入った女性信者に子供を何人も生ませている事実を詳細が伝えられました。教会を離れた息子の一人がインタヴューに応じたのです。
教祖さまの「神聖な血」を受け継いだ子供たちの多くが不幸な人生を歩んでいるそうです。
文のしたことは某学会教祖やオウム真理教教祖、モルモン教会教祖たちと全く同じ。
教祖はこんな人物だといわれても、教義を幸せになるための解決策であると信じて教義に依存するようになると、聞く耳を持たない。
信者たちは、幸せにしてくれたお礼として、またはもっと幸せになるため組織へ喜んでお布施を支払うのです。
モルモン教の信徒と彼女の信仰のことを全く知らずに親しくなり、彼女の所属教会を知っておどろき、開祖ジョゼフ・スミス・ジュニアの悪行を相当詳しく解説したのですが、聞いたこともなかったそうです。
モルモン教直営のブリアム・ヤング大学を卒業された彼女には、わたしはなんとも不快な人間に思えたでしょうね。
彼女は一生涯、モルモン教の教えに守られて幸せに生きてゆくのでしょう。それだけの投資は教会に対してしてきたようですし。
幸せはお金で買えるのです!
いまもなお、反社会的な宗教の力が世界を支配して動かしていることに、人の社会は変わらないという事実を再認識して寂しい気持ちになります。
信仰は個人の幸せの上で大事。でも個人の信仰が社会的になると、宗教と呼ばれるようになり、宗教団体は政教一致を志向するようになる。教義に基づく社会改革こそが宗教団体の究極の目的なのですから。
きっと世界の終わりまで変わらない。
心のよりどころ
幸せはお金で買える?
正論では、幸せはお金で買えないんだよだなんて教えるかもしれないけれども、経済的に成功している大人の中には、幸せは購買可能であると言い張る人もたくさん存在します。
人は人とのつながりを求める。
大抵の人は、人から認められること、愛されることを人生の最大の喜びとする。
人から「すごい、えらい、よくやった、かわいいね、きれいだね」と褒めてもらえると大喜び。
初対面の人にこれらの言葉を並べると大抵は気に入られます。接待業をする人はこういう言葉を口にすることは得意かも。
ちやほやされたい!たくさんの人がそう思ってる。
チヤホヤされると、脳内で麻薬ホルモンのドーパミンが発散されて気持ちよくなる。
だから更なる報奨系ホルモンを求めて、自己承認欲求の奴隷となる。
人が人とつながりあうことを求めるのはごく自然なこと。誰でもそうだし、またそうでないといけない。人は社会的な生物なのですから。人が人らしくあるためには、誰かと一緒に生きないといけない。
でも他人との健全なつながりを作り出すのは大変なので(対人ストレスやPR活動など、疲れます。信頼関係を結んで良い友と友好関係を結ぶのは大変、誰かと一緒にいたいけど、誰でもいいわけではない)安易な方法で幸せを探す。
ゲーマーの場合
ゲームをする。達成感や優越感を得られる。
ゲームのルールに従うだけなので、コツさえ掴めると人と交わりあうよりもゲームをマスターすることはわりと簡単。
でも最近はルールを無視していろいろゲームで強くなる方法さえある。だから「チート」というスラングが流行る。
「廃課金プレイヤー」はある意味、チート。
大の大人があるゲームに何十万も費やしたりしている。趣味に自分のお金をどう使おうがいいだろうというのだけど。
依存症という幸せ
薬物(アルコールやタバコは合法薬物)や性的快楽に溺れたりする。恋愛しないと耐えられない人も同じ。美食を極める人もいる。
肉体的生理的快楽は、やがては枯れる(加齢にもよるし、または飽きる)。でも人より美しいと思われたいという思いはなかなか忘れられない。
運動も快感。高カロリーな美食を食べたいけれども、肉体美を維持するために、ジムに通って汗を流す。
ジムで肉体を鍛えると間違いなく、筋力がついてきて、それが何とも言えない快感になる。報奨系ホルモンがあふれ出してくる。
音楽活動もスポーツもやはり快楽。
我々は快楽の奴隷。
自分も人のことを言えない。
自分の場合は知識に淫している。
学ぶことが楽しくて仕方がない。だから興味ある本をひたすら読んで、英語の動画を見て、そして学んだことをNoteなどでアウトプットしてる。死ぬまでに読めない本が多すぎて悲しくなる。聴きたい音楽も奏でたい音楽も山ほどある。
外国語を学ぶ、これも快楽だ。
自分の好きなことを語ることほどに楽しいことはない。
何かを本気で愛している。夢中になる。
音楽やら美術やら美食やら。これがわたしの人生最良のなのだと、客観的に自分が毎日していることを眺めてみると、そう結論できる。
インターネットで交流して「いいね」をもらったりして幸せになる。
このNoteでは「スキ」をたくさんもらってコメントをもらう。
ひとはいろんなことをして他人からの承認を得て、自己承認欲求を満たしている。
朝、すれ違う人と「おはようございます」という言葉を交わせるだけで幸せになれる人もいれば、もっともっと深い根源的な人格承認欲求を抱いていて、満たせなくて苦しんでいる人もいる。
お金で幸せが買える世界
幸せになる合言葉として、しばしば「 Giver になろう」といわれる。
もらってばかりだと、実は幸せにはなれない。
でも他人に何かを与える人はもらう以上の幸福感を得られるのだという。
与えると、ある種の優越感を得られるし、純粋に誰かが自分のしたことのために幸福感を感じてくれれば嬉しく思える。利他主義もまた本能的なもの。
「情けは人の為ならず」という言葉もある。巡り巡って誰かのためにしたことが自分の幸福に結びつくという意味。
優越感という言葉が嫌味ならば、愛を与えているとも、愛を分け与えているとでも、慈悲心と呼んでもいい。与えるものは幸いなり。
別に新しくもなんともない真理。
2000年ほど前に編纂された新約聖書にだって書いてある。
与えることができるのは、心に余裕があるから。
そして与えることで、自分は与えることのできる人であると自覚して、心の余裕が自分自身の中に芽生えてくる。
何も与えることができないという人がいる。
でもその人だってお金を少しばかりならば持っている。
だから知らない人のために、世の中の平和と幸福のために寄付として献金したりする。
誰か知っている人にプレゼントをあげる、ボランティアで何かをしてあげる、寂しい人に声をかけてあげる、人の話を聞いてやる、それだって与えること。
お金の余っている人は友達を招いてご馳走を振舞ったりする。あなたは感謝される。そしてそれがうれしい。外食すれば奢ってやる。感謝される。
たくさんのありがとうを言えることは幸福への道。でもありがとうと言われることはもっと幸福なのかも。
あなたは「どういたしまして」なんていう。
きっと心の中でとても嬉しくなっている。
でもあげるものをたくさん持っていても、あげる人がいない人、あげることができない人もたくさんいる。
周りに誰もいない。信じられる人がいない。
だからお金で幸福を買いたい。
だれかのために「正しく」お金を使いたい。なかなか難しいこと。
どうすれば自分が幸せになるために、自分の大切なお金を有効利用できるのだろうか?
根無し草と帰属感
人生の最大の問題は、いかにして幸福になるか。
幸福の定義はいろいろあるけれども、持続的な幸福感は、最終的な幸福に至るまでの道のりのこと。
達成してしまえば、あとには祭りの後の寂しさばかりが残る。
何かを求めていないと幸福になれないのが問題だと、原始仏教は執着心の否定を説くけれども、じつはそういう仏教は執着しないことに執着している。
永続的な幸福感を求めて、人は宗教に心の寄り心を求める。
仏教系でも、キリスト教系でも、イスラム教系でも、同じ何かを信じることで仲間になる。ここから宗教的幸福が始まる。
絶望したり、見放されたりしているとき、人生に虚しさを感じるとき、救いの手を差し伸べてくれるのは宗教だけだったりもする。
聖書にだってこんな言葉がある。
宗教は普通、団体行動。仲間になると、家族になるとさえ言われる。
信者同士は兄弟姉妹となる。生まれた場所の最初の環境に満足できない人は最初に与えられた家族から抜け出して、別の家族を探す。
疎外感や孤独感に苦しんでいた人は受け入れられて幸福になるのかも。
目的のなかった人は宣教するという生き甲斐を見出すかもしれない。
信じあう仲間との間に精神的な安らぎを見出すことだろう。
信じられるかどうかよりも、自分には心のよりどころがない、帰属するところがないという根無し草な人ほど、宗教に惹かれてゆく。教義なんてどうでもいいことが多い。宗教勧誘が見映えの良い信者の仕事なのはそんな理由から。
宗教団体は「精神的な家」を与えてくれる。
だから古い家の家族と対立する。
家族のためにお金を使うことは愛ある行為だ。子供の教育にお金を使う。身銭を切っても子供が成長すれば嬉しいものだ。
宗教に所属すると、新しい家族に同じように尽くす。
そして家族を支えるために献金する。教会を立てないといけないし、指導してくださる先生方の生活を支える資金も必要。
新しい宗教の家族がすべてになる。
帰属する、心のよりどころとなるグループを得る。
友達ができた!家族ができた!
国家や社会などという曖昧なアイデンティティではなく。親は選べなかったけれども、生まれた国は選べなかったけれども、好きになる者は選べる、信仰は選べるんだ!
新しい家族や家が本当は何をしているのかわからなくても、自分は幸せなんだ。
いつしか新しい家の価値観が世界の全てになってゆく。
分からないことは新しい家族が教えてくれて、無職でも仕事をくれて、結婚する相手がいない自分にも結婚させてくれる。
お金は家族が幸せになるためのもの。だから分け与えるべき。
自分はGiverで、世の人を、社会を、幸せにしているんだ!社会貢献!
正しいお金の使い方とは?
人生で最も大切なもの。それは自分自身の時間です。
そのかけがえのない時間を労働に費やした対価として得られた金銭。それを他人に与えること以上に尊い行為はない!
幸福はお金で買えるのだ!
浄財は世界を幸福にする、巡り巡って自分もまた幸福になる!
😔😔😔😔😔
統一教会を通じて購入された幸福感の対価4500億円+は上納されて、国外へと消えていった日本という国。
どうして日本という国という国はもっと別な幸福をあの人たちに提供してやれなかったのか。
多くの新興宗教では、いくら献金したかでグループ間での地位が上がり、役職を与えられて出世してゆくそうです。
統一教会ではいくら献金したかが大っぴらに発表されて、たくさん献金した人は、公の集会で褒められるのだとか。文芸春秋にそう書いてありました。
2千年も前の聖書には、そういうことはやめましょうと書いてあるのに。
次に北朝鮮の新型ミサイルが飛んだ日には、日本のお金で開発されたミサイルが日本へと帰ってきたよ、と皆がツイッターするのだろうな。
Giverってなんだろう。
私は聖書を読むけれども、教会にはゆきません。
聖書はいいこともたくさん書いているけれども、解釈次第では邪な宗教団体をも生み出す土壌でもある恐ろしい本。
邪悪とは反社会。
だれかのため?
でもだれかって本当にだれ?
そのだれかが邪悪な団体だと大変なことになる。
そして、もう大変になってるし。
廃課金という献金
宗教団体への献金において顕彰されるほどに立派な人は、幸福ゲームへの廃課金プレイヤーに等しい。
ゲーム内の地位は上がり、あなたの幸福度は課金するほど急上昇。
あなたは幸福獲得ゲームの勝者になれる。お金で幸福は買えるんです。
でもあなたがプレイヤーであり続ける限り、課金を受け取り、ゲームを運営している団体が何をしているのか決して理解することはできない。
賢治はこう書いたけれども、人生って本当に無理ゲー過ぎるんですよね。だからといってチートは許されない。
この賢治の言葉は新興宗教の金集めの常套句。
だれかが本当に幸せになるために、「与える」ってことの大切さと恐ろしさについて考えています。
ゲームは課金しないで無理して考えて、最後にゴールに着く方がいい。わたしはそう思います。
幸せっていうのはそこに辿り着くまでの過程なのだから。チートしてゴールしても、容易に手に入れた幸福感はいつまでも続かないものなのですから。