家族の呪縛「ミリオンダラーベイビー」
2005年に公開されてアカデミー賞四部門を獲得した名作映画「ミリオンダラーベイビー」。
クリント・イーストウッド監督作品。
公開直後に観て以来、十九年ぶりに再鑑賞しました。
帰宅部のティーンエージャーの娘がセルフディフェンスのためにボクシングを習いたいと言い出したのがきっかけでした。
近所のジムではティーンエージャー向けのクラスを開催していて、事務オーナーの方も若い女性(お母さん)という、理想的なボクシングジムを見つけることができたのは本当に良かったです。
「むさくるしい男たちばかりの汗臭いジム」という古臭いイメージからは程遠い、清潔でおしゃれなジム。
最近のボクシングってこんな風なのでしょうか。
女子ボクシングとは?
パリオリンピックでは男性染色体を生まれながらに持つ女性ボクシング選手の問題が物議を醸しました。
ボクシングは筋力が競技の優越に直結するスポーツですので、筋力を育てる男性要素(男性ホルモン)を多く持つ選手はどうしても競技では有利になりやすく、どうにも難しい問題です。
カリニ選手はケリフ選手のパンチを顔面に一発受けると、第一ラウンド開始早々(46秒)に棄権を宣言。「フェアではない、私の体のために」という彼女の言葉に世界中の同情が集まりました
写真は慰めようとするケリフを一瞥もしないで泣きながら退場するカリニ。
カリニは数日後にケリフに対しての非礼を恥じるようになったのか、SNSにおけるプレッシャーのためのポリコレなのか、「彼女に謝罪したい」との声明を発表。
なんとも後味の悪い試合でしたが、この46秒のためにカリニ・ケリフ両選手はいつまでも語り継がれることでしょう。不名誉な事件において。
LGBTQに極めて寛容で世界中の誰もが納得しないパリオリンピックの問題はひとまず置いておくにして、ボクシングは身体能力を高めるためには大変に優れたスポーツです。
ルール無用の喧嘩の殴り合いは「暴力」「犯罪」ですが、リング上で規則に則って行う試合は、柔道や空手などと変わらぬ「格闘技」だとわたしは思います。
後ろを向いた相手は決して打てないし(プロならばライセア剥奪の上、懲役刑) 相手を打ってもいい部分は顔や腹部など限られた部分だけです。
こぶしには布でテーピングしてこぶしを保護。その上にグラブをはめるので、こぶしを痛めることも、こぶしの骨が相手を傷つけることもありません。
グラブの強打は確かに凶器ですが、素手のパンチとは別物です。
そしてトレーニングした相手同士がルールに基づいて戦うのですから、フェアな格闘です。
ボクシングは、実際の戦場における殺し合いにはあまり役には立たない「スポーツ」なのです。
わたしがボクシングに愛着を感じる別の要素は、ボクシング特有のリズム感です。
のリズムで繰り出すパンチとリズミカルに動き回るフットワークは舞踏的です。
子どもの頃にアニメの「がんばれ元気」が好きだったことも、ボクシングは暴力的というステレオタイプから自分を自由にしているのかもしれませんが(わたしにはボクシングといえば、矢吹丈よりも堀口元気です)。
ハリウッド映画のシルベスター・スタローン主演で世界的大ヒットした「ロッキー」シリーズは、ヘビー級ボクサーがあれほどに派手に殴り合うという非現実さゆえに全く好きにはなれませんが。
映画の中の殴り合いは非現実であまりに暴力的です。
実際のところ、ヘビー級ボクサーが渾身の一撃を相手の急所に決めると、現実ならばそれだけでゲームは一瞬にしてKnock Outです。
顔を保護するプロテクターもつけないプロボクシングは全く危険極まりないなので、わたしは全く好みません。
野蛮極まりない往年のマイク・タイソンなど大嫌いです。
わたしが関心を持っているのはアマチュアスポーツとしてのボクシング、女の子もセルフディフェンスのために健康のためにたしなむようなボクシングです。
このような関心から、ほぼ二十年ぶりに名作映画「ミリオンダラーベイビー」を鑑賞したのでした。
大体のおおまかな内容は覚えていましたが、良い意味で映画の詳細を忘れていて、良い意味で想定外な映画でした。
「ミリオンダラーベイビー」はボクシングの映画ではなかったのです。
ボクシングを軸にして物語は進むのですが、映画の主題は、幸福になるための条件である家族がいない人たちの物語の家族の再生と喪失の物語だったのです。
どういう意味なのかは「言わぬが花」。
いつものようにテーマの中核となる問題だけをハイライトして、この投稿を読んでくださった方が映画をぜひ見てみたいと思っていただけると幸いです。
アメリカ映画「ミリオンダラーベイビー」
映画の主役は三人:
クリント・イーストウッド(フランキー:アカデミー男優賞ノミネート・監督賞受賞)
ヒラリー・スワンク(マギー:最優秀女優賞受賞)
モーガン・フリーマン(スクラップ:最優秀助演男優賞受賞)
というすごい顔ぶれ。
この三人が映画を動かしてゆく原動力となるのですが、男二人に女一人で三角関係の恋愛沙汰へと発展しないのは、フランキーとスクラップがもう完全な老人なので、三十歳とボクサーとしてはかなりの高齢なマギーは二人にとって娘の年齢。
フランキーもスクラップもボクシングに人生をすべてを捧げて自身の夢を果たせぬまま、怪我をして不本意ながら引退、いまもなおボクシングから離れられない人生を送っている。
スクラップは家族もいない天涯孤独のまま、ジムに住み込んでいる始末。
フランキーは一人娘と二十三年前に別れて以来、一度も会ったことがない。
手紙を一方的に送り続けているけれども、どれも開封されることなく送り返されてくるという日々を送っている。
フランキーは優秀なボクシングトレーナーなのだけれども、危険な試合は教え子には受けさせないので、彼が育てた有望なボクサーは誰もが彼を捨てて行ってしまう。
だからフランキーは、カソリック教会の毎週日曜日のミサを娘がいなくなってから一度も欠かしたことがない。
アイルランドはシェイクスピア時代のカソリック弾圧で知られるように、カソリックが多かった土地でした。
アイルランド系のフランキーはアイルランドのカソリックを受け継いでいたのです。でもフランキーは宗教のことなど、何も知りもしない。
彼にとって、カソリックはアイルランドの文化でしかないのですから。
心の拠り所を故郷に由来する、信じてもいない宗教に求めても、当然ながら心は決して満たされることがない。
だからフランキーを助けるべき神父は彼を相手にしようとさえもしない。
そういう人生の中、二人の前に家族に愛されたことにないマギーが現れる。
嫌々ながらもフランキーは、マギーに必勝のためのトレーニングを教え込んで、勝てるボクサーに仕立て上げる。
いつしかフランキーはマギーを実の娘のように思い始めていたのか、フランキーは彼女の入場のためのガウンを用意してやる。
自身のアイディンティティであるアイルランドの緑色に「Mo Chuisle」と刺繍されたガウン。
アイルランドの緑色は聖パトリックのお祭りで英語圏ではおなじみです。
「モ・ホシュレ」はアイルランド語(ゲール語)で「My Pulse 我が鼓動=命」という意味。
映画の中では「My Darling, My Blood=最愛の人、我が命」と意訳されていますが、この意味は映画の最後の最後までマギーには明かされることはありません。
フランキーは自身の出自であるアイルランド移民の子孫であることに誇りを持っていることがうかがえますが、同時にアメリカという移民の国において、居所のない根無し草的な存在であることもわかります。
だから愛するべき相手(娘)を求めてやまない。
娘との関係を修復したいフランキー。
でも叶わぬ望み。
愛情らしい愛情を家族の中で唯一与えてくれた死んだ父親を思慕するマギー。
アラサーなのに、彼女の心は幼い少女のように父親を思慕している。
こういう二人なので、二人はお互いに疑似的な家族の愛さえも育くんでゆくようにも見える。
人を愛するという人生経験にあまりにも乏しい不器用な二人。
娘には与えることができなかった愛情をマギーの注ぐフランキー。
ボクシングを通じてしか、自分を語れぬ男の精一杯の愛情(だから実の娘に見捨てられた)。
そんな二人の外見には完璧な関係は、ある試合を境にして急転換する。
ここから先はネタバレしないために誤魔化しますが、フランキーは自分がいつも持ち歩いている本の中の詩を朗読する。
自分の出身地であるアイルランドの大詩人ウィリアム・イェーツの有名な詩「湖の島イニスフリー(The Lake Isle Of Innisfree)」。
二十世紀の英詩の中でもっとも有名な作品のひとつで私も大好きな詩でした。英語圏の高校では授業でもよく取り上げられます。暗唱するにふさわしい名作です。
ですが二十年前の自分はよく知らなかった詩なので、この詩が映画の中に引用されていたことを全く記憶していないのは、前回にはあまり理解できなかったためでしょう。
映画では真ん中の第二聯が省略されていましたが、こういう詩です。
都会を離れて故郷である湖のあるイニスフリーに帰りたいという詩。
と規則正しく韻を踏む、平易な言葉で書かれた古風な詩。
And と There という格調高い詩にはあまりふさわしくない日常語が何度も出てくるのは、この詩を読んだ人はそういう素朴な人であるという設定でしょう。
Ariseは「立ち上がる、開始する」という言葉。
さあこれからやるぞ!という気持ちが表れた言葉。ただのRiseではないのがよいのです。
最後の三行、詩人は湖のあるアイルランドのイニスフリーに行こうと語りながらも、実際にはゆくことができない遠い故郷を懐かしんで帰りたいという心情を歌った詩なのだということが分かります。
フランキーがこの詩に共感するのは、ここではないところに帰りたいと願い続けているから。
フランキーは祖先の地を一度も踏んだこともないのかもしれないけれども、心の故郷はアイルランドなのです。
映画の冒頭近くでも、ボクシングジムの事務室で同じ詩をゲール語で読んでいます。
なによりもフランキーの心を言い表した言葉がイェーツの詩なのです。
マギーは愛する家族を求めて、トレーラーハウスに住んで政府の福祉で暮らしている母親たちを喜ばせたいと思っても、母親たちはマギーを愛そうとはしない。
愛がほしくてたまらなくてボクシングをしていたマギーを全く理解しようとはしない。
マギーの年齢ならば、新しい家族を作るべきなのだけれども、これまでの壊れた家族の関係を修復しない限り、新しい家族なんて彼女には考えられもしない
フランキーもまた同じ。
失った娘との関係を修復しない限り、マギーを自分の娘のようにはできないのだけれども、彼女に「Mo Chuisle」という言葉を与えるほどにフランキーはマギーを本当は愛している。
人は愛する人なしには生きてゆけない。
けれどもどうやって人を愛していいのかわからない。誰かに本当に愛されたことのない人たちには。
人は誰かの真似をして生きてゆく。模範になる人を持ったことのない人はどうやって生きてゆけばいいのかわからない。
家族に愛されたことにない人にはどうやって家族を愛すればいいのかわからない。フランキーのように。
家族に愛されなかったけれども、愛されたくてたまらないマギーは、最低の人間たちである肉親たちにそれでも期待する。
そんな二人の間にいる、ジムに住み込んでいて二人を絶えず見ているスクラップは、第三者として冷静に二人を見つめている。
彼らを何とかしてやろうとしておせっかいをするけれども、マギーもフランキーもスクラップの言葉を信じはしない。きっとスクラップもまた、愛情をもって誰かに接したことがない。
つまり、恋愛映画にはなりえない、ボクシングの世界を舞台とした本作のテーマとは「愛の不在」だったのでした。
「ボクシング」を通じてしか人と分かり合えないフランキーとスクラップ。
「ボクシング」を通じて家族に認めてもらいたかったマギー。
でも彼女を愛さない家族はボクシングなんて野蛮なことをしていてマギーは自分たちには恥さらしなのだと罵る。
マギーは何が家族を喜ばせるのかもわからないし、家族もまた、マギーの全人格を否定している。
どうしてこれほどに人と人は分かり合えないのか。
映画を見終わった後、深くて重い余韻に打ちのめされてしまう、そんな映画なのですが、クリント・イーストウッドが撮った数多い映画の中で最高傑作と言ってもよい映画でしょう。
後世に伝えるべき、21世紀初頭における最良の名画のひとつです。
映画お勧め度:
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️(人生を考えさせる深い映画が好きならば、特に悲劇が好きならば、本作品は超名作です)
⭐️⭐️⭐️⭐️(ショッキングなどんでん返しの物語展開が好きならば、ネタバレしなかったので、どんな結末なのかは見てのお楽しみ)
⭐️⭐️⭐️(英語学習の教材としては:非常に分かりづらいアメリカ英語)
イギリス英語で暮らしている自分には、低い声の男性がぼそぼそ喋るアメリカ英語の聞き取りはとても難しかった。
特にナレーター役のフリーマンの英語、自分には聞き取れない(英語ネイティブの娘にも難しかった)。
登場人物は社会底辺の教養ない人たちばかりなので、英語表現も美しくはなく、スラングだらけ。
名優たちはわざと訛りのある労働者英語を喋っている。
この意味でフリーマンは語彙力のない教養ない男を演じるという大変な名演をしているのだけれども。彼はもっと明確な英語で別の喋り方もできます。
でもだからこそ、美しくない英語の世界において、イーストウッドが唐突に暗唱するイェーツの詩の言葉はあまりにも美しい。
⭐️⭐️(娯楽映画としては:鑑賞後に気持ちが暗くなる映画が嫌いならば)
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。