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ある家族の会話:須賀敦子とナタリアの関係性
数あるイタリアの物語の中でも、なぜナタリア・ギンズブルグ著「ある家族の会話」を推すのか。
noteサークルメンバーから素敵な質問がありました。
サークル名:noteで読書会をためしたら
https://note.com/toshimitsuhara/circle
その理由を私なりに以下に述べてみたい。
翻訳した須賀は,作品の特長を次のように伝えている。
「私をほとんど狂喜させたのは,著者が自分の家族について書くにあたって,言葉にまつわる思い出を軸に用いるという,手法の斬新さであった…この手法のおかげで,作品にすこやかな客観性が確保されている…この作家の言語がなにか私自身のなかにある地下の水脈につながっているという印象」
理由は,たぶん。
翻訳者が表現する作品の魅力の森に入ってみたくなったから。
上記はエッセイ『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』の抜粋で,こちらを読んでいくうちに,須賀とナタリアの関係性に興味を覚えた。
また,須賀は友人宅で,文学について議論を伯仲させる時をもっていた。
「こういった場所での議論というのは言葉のテニス・ゲームのようなもので,ひとりがコートの『魔の山』側に立って球を打つと,いち早くだれかが,反対側から『ブッデンブローク』の球を打って返すという感じの,さわやかな遊びだった。」
こうした言葉のさわやかな遊びを,読書会という場で試行してみるのもいいかもしれない,と。
その素材に,日本であまり著名でない作品を扱ってみるのも,ときに新鮮な捉え方へと拡がるかもしれない,と私は考えた。
書店で働いていた須賀の夫が家にもって帰り,一気に読み上げたという,『家族のものがたり』。
ちょっとだけ,言葉遊びの森に入ってみたくなりませんか。
「単なる家族史におわることなく、戦中、戦後のイタリアの知的荒廃の土壌に、イタリア有数の出版社、エイナウディ社を育て上げた、パヴェーゼやバルボ、ジュリオ・エイナウディらの魅力的な横顔をつたえる、文字で書かれた写真帖でもあり、ひいでは当時のイタリアの知識層の精神史でもある。」
文中引用:
池澤夏樹編, 日本文学全集第25巻, 須賀敦子著. 私のなかのナタリア・ギンズブルグ p.390-392. 河出書房新社. 2016.より