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自然界に正解はなく、あるのは応えだけ


<畑の哲学>自然界に正解はなく、あるのは応えだけ。

これまで連続講座で「参加者全員、自然農ができるようにする」と宣言して、のべ80人くらいの人に指導してきて
「できるようになる人とそうではない人」の違いがだんだん分かってきた。
さて、これから説明する前に一言言っておきたい。
私の講座に来ている時点で「あなたは自然農に向いていない」

というのも、そもそも自然農に向いていたら誰に教わることもなく勝手にできてしまう。畑とも植物とも簡単にコミュニケーションをしてしまう。
実際に俺の友達にもそういう人はたくさんいる。
私が思うに現代の日本人で自然農に向いている人は0.1%もいないんじゃないだろうか。

でも、安心してほしい。
向いていないけど、できるようになるから。

というのも小さい頃から現代教育を受けてきて、大人になって現代社会で生きてきた私たちは
どんどん自然から隔離され、野生性を失ってきたのだから、自然農に向いている人はほとんどいない。
実際のところ、たいてい自然農に向いている人は現代社会では生きていけなくて、他人とコミュニケーションするのも難しい人ばかりである。
だから、ここまで無難にいきてきたあなたは自然農に向いていない精神性を備えてしまっている。
なので、私の連続講座ではその鎧をそぎ落とすことから始まる。

さて、連続講座に来る人の中でなかなかうまくいかない人に多いのが①教科書バカと②テクニックバカである。
私よりも農業や植物に詳しいし、私よりも農法やテクニックを知っているのに、畑には全然実っていない。
大抵こういう人の畑は害虫や病気が発生してしまい、キレイさっぱり野菜がいなくなる。

そこでこういう人はすぐに教科書や講師の元に飛びつく。合言葉は「どうしたらいいですか?」だ。
現代教育で徹底的に教育されてきた人々は「正解」が教科書に載っていると、教師が知っていると思い込んでいる。だから、目の前の生命たちとコミュニケーションすることなく、すぐにどこかに行ってしまう。彼らに関係なく最先端の知識を使って、流行のテクニックを押し付ける。それは「子供のために」と言いながら、いろんな習い事に連れまわす親そっくりである。

自然農に向いている人はそんなとき畑に座り込み、ゆっくり観察し、野菜の表情を読み解き、虫の知らせに耳を傾ける。自然界には「正解」はない。あるのは「応え」だけである。自分自身が畑にしたことに対して自然はいつも応えている。反応している。それを観察するからこそ、声を聴くことができ、こちらは対応を変えることができる。それは子供の目線の高さに合わせて、目を合わせて話を聴く親そのものである。

向いていない人は野菜がうまく成長するとすぐに誰かを賞賛する。教科書を褒め、講師を称え、ときには危険な宗教信仰のように過剰に正解にすがる。周りの人に布教をはじめる。一部の自然農を実践する人たちが新興宗教のように見えるのはこういった人たちが集まっているからである。こういったグループはトップの人がいなくなると衰退していくか、内部でいざこざが起きて崩壊してしまう。

そうでなくても教科書バカやテクニックバカは講座の最中や終えた後に、すぐに他の講座に参加したり、いきなり混ぜ合わせて変なやり方を始める。ときにはまだまともに野菜が育ったことがないのに実験を始めることもある。こういう人のことを日本の伝統芸能の世界では「型なし人」と呼ぶ。型がない人はずっと最先端や流行を追いかけて、自分の自然農に向き合うことがないから、積み重ねも生まれないし、軸が定まらないままだ。だからずっとできないままでいる。

向いている人たちは野菜がうまく成長して収穫を終えると誰かを賞賛することはなく、ただ静かにそっと土の上に草マルチを敷く。そして小さく「ありがとう」と感謝の言葉を置いていく。太陽を見つめて、風を感じて、雨に感謝する。彼が野菜を手に持って歩き出せば、虫たちが一斉に動き出す。彼がここからいなくなった後は静かに森になっていく。

自然農の畑はその人の生き方や世界観がよく現れる。自然農に向いていない人は③「相手をコントロール」しようとする。だからこそ、すぐにテクニックに走ってすぐに結果を求める。その行き着いた先が肥料と農薬である。

自然農をただの「無農薬無肥料」と考えて、ひたすら生えてくる雑草を抜き、米ぬかや堆肥を撒き、虫を一生懸命取り除いていけば、実際に野菜を成長させることができる。向いていない人はただ表面的なやり方が変わっただけで、精神的な変容や人間的な成長がないままだから、ずっと苦しいままである。忙しいままである。

ただそれでは自然農の一番奥深いところを味わえない。「草や虫を敵としない」という教えの面白いところは彼らも同じコミュニティの仲間として一緒に成長していくところである。自然農のコツをつかんでいくと人間の仕事は減っていく。最終的には福岡正信さんが言うように「タネを蒔いたら、あとは寝て待て」という状態になる。

私は収穫された野菜を見て、その人が自然農を理解しているかどうかを見極めることは決してない。必ず畑を観察する。向いていない人はいつまでも野菜の大きさや収量にこだわり、それで自分自身を認めることができる。そう、向いていない人は自身の承認欲求を満たすために自然農をしているだけにすぎない。そういう人に自然は味方をしない。天気が悪い、土が悪い、運が悪いと愚痴をこぼす。

向いている人は畑に生物多様性が生まれ、ともに生きている様子を見て安心する。誇らしい気持ちになる。野菜が立派に成長していても、なかなか大きくならなくても野菜に感謝をする。太陽に風に雨に感謝をする。土に虫に獣に感謝をする。そして自分自身を褒めるのではなく過去の自分の行いに感謝をする。

「いま、ここ」の自分が決して自分一人で完結していないこと、現在だけで成立していないことに気がついた人なのだ。こういう人に自然は味方をし、周りの人から運がいいように見える。

何も頑張っていないのに、野菜を育てようとしていないのに勝手に育ってしまう。勝手に恩恵を受ける。勝手に豊かになってしまう。それが自然農の境地であり、福岡正信さんの言う「無為自然の世界」である。この境地にたどり着く人は稀ではあるが、誰でもたどり着ける世界でもある。

なんちゃってスピリチュアルの人たちのように口先だけではなく、実際に行動で愛を表現できる人だけがたどり着く深みである。なんちゃってエコの人たちのように口先だけではなく、実際に行動で多様性を作り出せる人だけがたどり着く極みである。

人間的な成長は自然遷移の流れと同じようにゆっくり起きる。焦る必要はない。畑の上に三年。その変化をじっくり観察し、そのリズムに合わせて暮らしていけばいい。もっと自然を信じたらいい。自然を信じることは他者を信じることであり、自分を信じることだ。現代人の尺度からすればもどかしいほどに他者も自分も変化がゆっくりだが、必ず調和に向かうのだから焦る必要はない。


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