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西洋美術史覚えて楽しく美術鑑賞しようよ⑥ ギリシャ美術:クラシック期

美術館に行ったはいいけどよく分からないまま「見た気分」になってしまっていた筆者が、「美術史を学ぶと、美術鑑賞が格段に楽しくなるのでは!?」と気付き、勉強がてらnoteにまとめていくシリーズの第6回。
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※知識ゼロからの素人が、限られた参考文献をもとに作成する記事です。個人の推測も含まれますのでその前提でお読みください。明らかな誤りがあった場合はご指摘頂けますと幸いです。

幾何学様式期から、ギリシャの美術は1、形体の構成要素にせまる分析 2、普遍的な概念を探求する姿勢を追求していったことを前回説明した。

前700年頃から始まったアルカイック期の表現は200年ほど続いたわけだが、次に前480年ごろで区切って「クラシック期」と呼ばれる時代へ移行する。

ここで美術から一旦離れ、社会的な歴史を振り返ってみると、この時期はペルシア戦争が起きていた時期である。前492年ごろ、メソポタミア美術のパート(①参照)で紹介したアケメネス朝ペルシアが、ギリシャまで攻め込んできたのだ。念のため地理関係をおさらい。

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上記画像にあるドーリア人・イオニア人・エオリア人というのは同じギリシャ人だが異なる方言を話す人々。元々この人々がギリシャからエーゲ海を渡った先の小アジアに植民市を形成し生活していたところへ、アケメネス朝ペルシアがズンドコやってきて戦争になったというわけだ。

その後何度かに渡りペルシアとギリシャの間の戦争が起きるのだが、一般市民も一丸となって戦略的に軍をなしたことが功を奏し、前479年、ギリシャ軍は実質的に勝利を収める。(強い!)

つまり、このペルシア戦争で勝利したあたりに、美術においても新しい表現が試みられており、アルカイック期からクラシック期への転換ポイントと考えられているのだ。

クラシック期(前480〜323年)

では、アルカイック期からクラシック期では何が変わったのか。簡潔に言えば、より生命感感情を重視し、今の私達から見て自然な表現が強まったと言えるだろう。

いくつかのジャンルに分けてより詳しく見ていこう。

●立像 - コントラポスト

「クリティオスの少年」と呼ばれるこの立像を見て欲しい。前回紹介したアルカイック期のクーロス像(男性像)に比べて、なんとなく自然に感じられるのは分かる人が多いだろう。一体何が変わったのだろうか?下に改めてクーロス像の画像も並べてみるので、是非考えて見て欲しい。

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決定的に違うのは、左右の足への重心の掛け方だ。クーロス像でも、どちらか片方の足がやや前に出ているという点では同じなのだが、クーロス像の場合、左半身と右半身がほぼ対称の形に見えるゆえ、重心がどちらかに偏っているのではなく、均等な感じがするのが少し違和感をもたらしていた。その点このクリティオスの少年像では、踏み出している右足のほうに重心がかかり、左足は力を抜いている感じが分かったり、腰も左のほうに出ており、顔の方向も良く見ると真正面ではない。凄い、わずかな差で生命感は桁違いに違う。

のちの前450年頃、ポリュクレイトスという彫刻家が「やりを担ぐ人」という彫像を完成させた。残念ながら原作は消失してしまったようだが、これはその模刻像だ。

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こちらは先ほどの少年像よりさらに重心が分かりやすく、しなやかにS字を描く人体に美しさを感じる。

この片足重心の立ち姿は「コントラポスト」と呼ばれ、以後長きに渡り西洋美術の男性立像のモデルとなった。今となっては当たり前のようだが、革命的な進化だったと言えよう。

●絵画

前回、アルカイック期に確立した壺絵の技法で黒像式・赤像式を紹介した。クラシック期の赤像式陶器はさらに心理表現を深めていく。

当時、特に多くの画家から人気だったテーマが、ギリシャ神話の「アキレウスとペンテシレイア」のストーリー。

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舞台はトロイア戦争。小アジアに位置するトロイア(冒頭の地図では「トロヤ」)に、ギリシャのアカイア人が持ちかけた戦争である。アキレウスは、ギリシャでも随一の英雄だ。そしてペンテシレイアは、トロイア側についたアマゾン族の女王。つまり二人は敵同士。一騎打ちとなり、英雄アキレウスが女王にとどめの一撃を与えた瞬間、彼女の美しさに気づき、恋に落ちた・・・というエピソードだ。

そんな背景を頭に入れたうえでこの絵を見ると、確かに一撃を食らって膝から崩れ落ちた女王が、切なげに英雄を見つめ、当の英雄は「ハッ」としている感じがする。とてもする。古代から変わっていない、人間の悲劇のメロドラマ好き。

●建築、建築装飾

古代ギリシャではポリスと呼ばれる都市国家が点在していたことは前回説明したが、各ポリスの中心部に位置した小高い丘(城山)はアクロポリスと呼ばれた。(ギリシャ語で"高い"を意味する「アクロス」+「ポリス」)

そして、現在もギリシャの首都であるアテネ(アテナイ)は古代ギリシャにおいても最大最強のポリスであり、そのアテネのアクロポリスに建てられたのがパルテノン神殿だ。ギリシャ神話に登場する処女神アテナ(アテナ・パルテノス)が祀られている。

パルテノン神殿は、実はアルカイック期から建設は始められていたのだが、先述したアケメネス朝ペルシアとの戦争により、完成する間もなくブチ壊されてしまった(悲劇)。でも、守護神でもある女神アテナを祀る場所なわけなので、さすがに放置するわけにはいかないということで、ペルシア戦争に勝利したあと、15年かけて再建したわけだ。

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すべてが大理石製ということもあって一部が損失している今でも十分に豪華絢爛な雰囲気が伝わってくる。

ギリシャの建築様式は、ドーリス式、イオニア式、コリント式の3つがあるのだが、パルテノン神殿はドーリス式にあたる。(こちらのサイトに分かりやすく説明されています)

この神殿でまず特徴的なのが、建物の根幹でありながら主役も成している計46本のである。高さは10mを超える。エンタシスと言われる、柱の中間部を膨らませ、上部と下部にかけて徐々に細くする技法が用いられている。(パルテノン神殿に限らず、ギリシャの神殿はエンタシスがよく用いられた。)
この正面からの画像だと良く分かるかな。

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なにゆえそうしたかと言うと、神殿に近づいて柱の根元から上を見上げたとき、ただの真っ直ぐな柱よりも安定して見えるらしいのだ。へえ〜。ちなみにこのエンタシス、日本だと「胴張り」が同じような技法で、法隆寺が有名だ。

さらに、実はこの柱たちは完全に垂直に立っているわけではなくて、僅かに内側に傾いているらしい。つまり、この柱を上に向かってひたすら延長させていくと、上空1700mで一点に収斂するという、見えないピラミッド形式になっているのだ。

それだけでなく、床面も中央に向かってわずかに高くなっている。これも、巨大建造物の場合、完全にフラットな床面に完全に垂直な柱が立っていると、床面の中央は凹んで見えるという人間の錯覚を逆手に取ったものだという。

そうした言われなければ分からないような僅かな調整が、パルテノン神殿の「美しさ」の正体だったわけだ。国をあげた一大プロジェクトの名誉をかけて、後世に残る完璧な建造物を仕上げたいという古代ギリシャ人のプライドが感じられる。

さて、神殿上部を装飾する彫刻についてもきちんと触れておきたい。これから紹介する建築部位がどこに当たるのか、この図で確認して欲しい。

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(画像:北澤洋子監修「西洋美術史」より)

まず東西南北の四周のメトープには、約1mの正方形の肉厚な浮き彫り(ハイ・レリーフ)が、計92枚設置された。主題にはギリシャ神話の四つの戦争ー「オリュンポスの神々と巨人族の戦い」「ギリシャ人とアマゾン族の戦い」「ラピタイ族とケンタウロスの戦い」「トロイ陥落」を用いており、ギリシャ戦争の勝利を高らかに詠っている。

※何度か触れている「ギリシャ神話」の内容はあまりに壮大すぎるので深掘りを避けるが、中田敦彦氏のYouTube大学なんかは面白く学べるのでお勧めしたい。

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それにしても、いくら15年かかったとはいえ、92枚のここまで大きなレリーフが制作されたのはかなり大掛かりな仕事だったことが想像できる。一枚一枚に微妙な彫りの違いがあることから、ギリシャ各地から職人が集まって同時に仕事を進めていたことが分かる。

また、神殿の本尊を安置した神室の上方をぐるりと巡っているのがフリーズで、この部位には女神アテナに捧げられた祝祭の行列が表現されている。躍動感のある騎馬隊や戦車行列、奏楽隊などだ。

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現存するフリーズの約2/3は大英博物館に展示されているとのことで、その造形を間近で目にすることが出来るので、訪れる機会があれば必見だ。

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お分かりいただけるだろうか、この疾走感と躍動感。リアルな骨格に隆々とした筋肉。ギリシャ彫刻はこのクラシック期にそれまでと一線を画す生命感を手に入れたのだと、改めて確信させられる。

ちなみに、フリーズで囲われた神室の肝心の中身だが、かつては高さ約11mのアテナ神の黄金象牙像(武具と衣装が黄金で、肌には象牙をかぶせた像)が安置されていたのだが、現存していないそうだ。残念。。

最後に破風(ペディメント)部分だが、東面には「処女神アテナの誕生」、西面には「処女神アテナと海神ポセイドンの統治権争い」を主題とした群像が置かれた。

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前回アルカイック期のところで服の衣文である「ドレーパリー」について説明したが、そのドレーパリーの表現も見違えるほどリアルになっているのが分かるだろうか。

パルテノン神殿の完成後、同じくアテネのアクロポリスに建設されたニケ神殿にある「サンダルの紐をとくニケ」の像なんかも、女神の丸みをおびた膨よかな身体が纏う衣服の繊細なドレーパリーが見事に表現されている。

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このニケ像にも代表されるような、豊満な身体を特徴とする華麗な美術様式はその特徴の通り「豊麗様式」と呼ばれた。

政治・社会面でもさぞバブリーな時代だったのだろうと思いきや、時代背景としては、ペロポネソス戦争というギリシャ全土を巻き込んだポリス同士の戦争が、前431〜404年もの長い間勃発していた。アテネを中心とする同盟vsスパルタ(ペロポネソス半島に在ったポリス)を中心とする同盟の争いだ。ギリシャ戦争では仲間同士だったけれど、やはり国内でも色々あるよね。ちなみにこの戦争、なんとスパルタ軍の勝利で幕を閉じている。

そんな暗い時代にこの像を彫っていた美術家のことを考えると、その丁寧な仕事ぶりが「神にも縋りたい思い」に裏打ちされているような気さえしてくる。

ペロポネソス戦争の完結後は、クラシック期の中でもクラシック後期と区切られる時代になるのだが、クラシック後期の美術はその後のヘレニズム時代の美術との共通点が寧ろ多いということで、今回はここまでとする。次回、ヘレニズム美術お楽しみに!

*本シリーズで参考にさせて頂いている文献たち
・中村るい、黒岩三恵他『西洋美術史』(武蔵野美術大学出版局)
・堀内貞明、永井研治、重政啓治『絵画空間を考える』(武蔵野美術大学出版局)
・池上英洋 、 川口清香、荒井咲紀『いちばん親切な西洋美術史』(新星出版社)
・池上英洋 、 青野尚子『美術でめぐる西洋史年表』(新星出版社)
・池上英洋『西洋美術史入門』(ちくまプリマー新書)
・早坂優子『鑑賞のための西洋美術史入門』(視覚デザイン研究所)
・木村泰司『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』(ダイヤモンド社)
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