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「ぼくたちの哲学教室」を観た私

久しぶりのユーロスペースで、やっとこさ観た今作。

教育に携わらない人も見る価値があると思える作品だった。


「ベルファスト」という映画を観ていなかったら、恐らくこの作品は見過ごしていたと思うし、本当に無知な私はこの地がどういう場所かも知らぬに過ごしていたと思う。

過去に見た作品が(ドキュンメタリー映画とは言え)現実の世界に連れ出す機会をくれた。これだから映画はやめられない…


往々にして「哲学」というものはそうなのかもしれないけど、「ネガティブな感情」を自分の言葉で言語化して対話しながら咀嚼していたのが印象的だった。そしてその行為を絶えず繰り返す、くどいくらいに何回も何回も。「ネガティブな感情」の題材は変われど、毎回同じように自分たちの頭でその場で考え、感情を言葉にして言い合うのだ。

これを劇中「思索」と呼んでいたが、その思索を続けるうちに、いずれ不意に現れる「ネガティブな感情」と対峙した時の対処法が身につけられるんだろうと思う。

この映画を観ていると、一回限りの道徳の授業ではこの処世術は身につけられるはずがない、と打ちひしがられる。


そしてこれは哲学の授業だけに留まらない。生徒が実際に「ネガティブな感情」と対峙した時の校長たちの対応も同様だ。これが本当にすごくて…


小学校で何かいけないことをしてしまった時、思い起こされるのは「反省文」だ。言葉にして「言う」のではない、「書く」のだ。自己と向き合うことはあったとしても、そこに対話はない。これが日本でのポピュラーな反省スタイルのように思う。(少なくとも私の記憶では。)


でも、その時の感情っていうのは時間が経てばどこかに行ってしまう。家に帰って机の上で反省文を書こうとするとき、もうその感情は心の奥底にいってしまっている。掘り起こす方法すら小学生には至難の業だ。だから通り一遍の謝罪文しか書けない。


だがどうだろう。感情がまだホヤホヤのうちにその場で言語化させてくれたら。もちろん1人でうまく言葉にはできない、だから校長やリールのような大人にうまく引き出してもらいながら感情を言葉にして、哲学的に整理していく。

「思索の壁」は説教部屋とはまた違う。たしかに校長の威厳に生徒たちはピリつくけれど、少しずつ感情を紐解けるようになっていく。繊細でピュアなのにどこか逞しい少年たちの姿に度々涙してしまった。


日本の教育はダメだとかそういう話とはまた違う。そもそも、その地が踏んだ歴史も違えば教育の体制だって異なるだろうから。でも、劇中ある少年が言ったように「血の色は同じ」なのだから、やっぱり人間はたくさんの対話の中でいろんな生き方を学ぶような気がしている。


私は教師でもなければ教育に携わる人間でもないけれど、今の私にも見習えることがたくさんある素敵な作品だった。

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