亀鶴姫410歳〜森家に嫁いだ将軍徳川秀忠の初孫
加賀藩主前田利常の長女で、将軍秀忠とお江の方の初孫となる亀鶴姫は慶長18年(1613)3月9日に加賀で生まれ、森家に嫁がれます。
まもなく410歳のお誕生日を迎えます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132139369/picture_pc_490760866563746d5ee1556af3bb7e58.png?width=1200)
この玉手箱は森家と前田家の家紋がデザインされた亀鶴姫の婚礼道具でした。加賀藩主前田家のみが使用する加賀梅鉢紋を丸で囲んだ女紋としてデザインされています。今頃は雛飾りも出ている季節ですが、ちょうどその原寸大と言えるかもしれません。寛永5年(1628)、396年前に作られました。
松平姓の拝領までもう一歩だった森家。
この時の森家は美作国一円を領する国持大名として、江戸城内では大広間と言う最上級の詰所を与えられる家格まで手にしています。
この上は将軍家との血縁さえ持てれば、前田家や伊達家のように松平姓を賜る外様大名として、森家は安泰な大藩として幕末を迎えられたかもしれません。
大河ドラマでも脇役ばかりで地味な森家ですが、亀鶴姫は、秀忠の次女・珠姫が嫁ぎ先の加賀前田家で産まれた長女で、秀忠とお江の初孫。前田家とも親族となる。
これ以上はない縁談でした。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132141266/picture_pc_288c59ad5833affd44c3c2673ebb29d1.png?width=1200)
(拙著・茶の湯と文化 より抜粋)
この縁談は亀鶴姫13歳の時に決まります。
寛永3年(1626)。
津山藩主森忠政公の世嗣である森忠広25歳に嫁ぐにあたって、祖母であるお江の方の強い意向で、「前田亀鶴」さんはいったん将軍である徳川家光の養女となり、形式上は「徳川亀鶴」さんという事で寛永5年(1628)に森家へお輿入れされます。
これで忠広と亀鶴姫の間に男子が生まれて森家を継ぐようなことがあれば、森家にも松平姓が許されるという算段です。
しかし、現実はそうはならず。
森家に輿入れされる事2年。寛永7年(1630)
亀鶴姫は18歳で早世されます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132143035/picture_pc_7807b7a7824652142e3c48e3371a94d0.png)
寿福院の墓所と並んでおり、埋葬された可能性もある。
お棺は池上本門寺の前田家墓所に葬られ、亀鶴姫の祖母・寿福院(前田利家の側室)の希望で羽咋市の妙成寺にも供養墓が立ちます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132141560/picture_pc_72a1b1cd273e7669ebfc1ba866c33cd9.png?width=1200)
生前は千代保と呼ばれたこの女性は、前田利家の側室として知られる。(金榮山妙成寺HPより)
寿福院は加賀で生まれ育った姫と幼少期を共に過ごした親のような存在だったと思われます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132142857/picture_pc_47dd6739dc3232ee155e2fb6f1748be2.png)
寿福院造らせたと刻まれている
東京・池上の本門寺庭園(非公開)にはこの供養塔の付属と思われる石燈籠 も現存しており、これは祖母の寿福院が亀鶴姫の菩提を弔うために建てたと刻まれており、寿福院が如何に亀鶴を可愛がっていたが窺えます。
亀鶴姫は実母の於珠が若くして没したことから、このように寿福院が親代わりを勤めていた可能性が高い。また、能登の妙成寺は慶長年間に壽福院が帰依した寺院であったことからも、亀鶴姫が妙成寺に葬られ、寿福院自らも墓所としたのは、寿福院自身の希望だったのかもしれない。
ちなみに、寿福院の層塔も池上本門寺に建てられている。しかし、こちらは生前である元和8年(1622)と銘があることから、自ら没後の供養として建てた逆修塔である。
浩妙院(亀鶴姫)の層塔が、この壽福院の層塔と同じ形式であることから、浩妙院の層塔自体も壽福院が建立したのかもしれません。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132139423/picture_pc_9719b9fcfb06138eab9c61f55a4786f9.png?width=1200)
この玉手箱はその時の輿入れに使われた婚礼道具で、我が家で最も古い、大切な伝来品の一つです。同型品が加賀前田家に現存していることや、現代に伝わる漆器の名産地である事からも、この玉手箱が北陸で作られたことは言うまでもありません。
時代が下り、用途は当家の書類箱となって、「御手箱」と呼ばれます。
中には後水尾天皇の御宸翰、輪王寺宮や妙法院門跡の書簡、乾隆帝の勅書、武田晴信(信玄)や徳川家康の書状、将軍家の御内書、柳沢吉保や大名の短冊、歴代藩主一家の書状や知行状などが納められ、当主と継嗣のみが密室に籠り、裃姿で拝覧するべしとされています。
その幾つかは歴代当主が収集したと思われるものも含まれており、いわば森家の正倉院。
森家は明治と大正に2度火災に遭いましたが、これだけは第一に持ち出され、無事な姿を保っています。しかし2度の火災を経験し、焼失を恐れた当時の当主によって、一部の史料はゆかりのお寺へ奉納されました。
現在中身は、空調管理がされている然るべき場所にあり、中は空になっています。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132137550/picture_pc_9ac9ee0ef26cf0b969f6d58dc1562e2e.png?width=1200)
お江は亀鶴姫を森家に嫁がせようと秀忠に語る
亀鶴姫の森家お輿入れ。
この逸話の導入が、大河ドラマ「葵徳川三代」で採用いただいた時の感激は一入でした。
参考
NHK大河ドラマ「葵徳川三代」第42話より部分。
放送 2000年10月29日20:00〜20:45
(著作権法第32条に定めた引用に基づく)
#葵徳川三代 #森忠政 #森忠広 #森忠廣 #亀鶴姫 #亀鶴姫の墓 #加賀前田家 #加賀藩 #津山藩 #大名 #加賀梅鉢紋 #梅鉢紋 #婚礼道具 #前田利常 #徳川秀忠 #sadou #chadou #ceremoniadelt é #ceremonieduthé #chado #ceremonieduthe #cérémonieduthé #teaceremony #茶道 #裏千家 #お茶のある暮らし #お茶のある生活 #抹茶好き #抹茶好きな人と繋がりたい #伝統文化