ゴシックハート


色ならば黒。時間なら夜か夕暮れ。場所は文字通りゴシック建築の中か、それに準ずるような荒涼感と薄暗さを持つ廃墟や古い建築物のあるところ。現代より過去。ヨーロッパの中世。古めかしい装い。温かみより冷たさ。怪物・異形・異端・悪・苦痛・死の表現。損なわれたものや損なわれた身体。身体の改変・変容。物語として描かれる場合には暴力と惨劇。怪奇と恐怖。猟奇的なもの。頽廃的なもの。あるいは一転して無垢なものへの憧憬。その表現としての人形。少女趣味。様式美の尊重。両性具有、天使、悪魔など、西洋由来の神秘的イメージ。驚異。崇高さへの傾倒。終末観。装飾的・儀式的・呪術的なしぐさや振る舞い。夢と幻想への耽溺。別世界の夢想。アンチ・キリスト。アンチ・ヒューマン。

『ゴシックハート』高原英理

ゴシックハートを読んだ。元々ちょっと気になってて、弾丸奈良旅行で解散してから本屋徘徊してたら見つけた。いい感じの本屋だったので絶対何か買いたくて、一度退店したのにもう一度入店して買った。目次とか、章の初めが黒いページに白文字なのもなんかええやんと思った。正直、そのくらいの気持ちで買ったんだけど、

つまり恐怖を求める心とはパンクの心である。

ゴシックハート 高原英理

ここで買ってよかった〜!と思った。何を隠そう、私はパンクが好きなので……
文通相手とちょうど話していた情けなさや嫉妬、グノーシスにも言及されているし、三島やシュルレアリスムまで出てくる。まんまと好きなものばかりで喜んでいたけど、普通に経験値が貯まってきたから何でもかんでも自分に関わりがあるようになってきているのかも?
あるいは、ゴシックの範囲はあまりにも広く、その範囲に私が無知すぎるだけなのかも……

色々好きなところや気になるところはあるけど、とにかく肉体、アンドロギュヌス、差別周辺についてだけでも感想を書いておきたい。ゴシックとはどういうものなのだろう?という疑問は、全てを読み終えた今、一番上で引用したものが一番わかりやすくまとまっている。読んでみてよ。面白いので。ゴスロリのゴスしか知らんくても面白かったし。
おそらく長くなるのでジャンプできるようにしておこかな〜

肉体と意識

 意識は身体の形態を自分で選んだわけではないからだ。そして意識の関与できない身分の形態が意識そのものの価値まで決定してゆくとき、意識はひどく無力である。
(中略)
-そもそも意識は身体を規定するのではなく実際には身体が意識を規定しているのである、しかも意識は他者の視線によって成立しているのだから、身体とそれへの他者の視線の質が変更されれば意識も変わると考えることは極めて論理的だ。

『ゴシックハート』高原英理

肉体は意識の入れ物といったような考え方は往々にしてあり、私も例外ではなかった。それは私の性欲嫌いというか、無駄な潔癖や理想論の塊な部分からきているものである。

私たちは、他者に映された自己像によってしか、そこに表われる他者との比較によってしか自己を意識できない。

では、自己を意識するために他者と比較できるのははたしてどこなのだろうかと考えた際、そこに他者の意識は候補に上がらない。他者の意識は目に見えない。確実に観測できるのは肉体しかない。肉体あっての意識であり、その肉体のあり方によって意識のあり方も変わることがある(当然)。でもそんなひどいことってないよな、そんなひどいことってないと言いつつ肉体が選べるなら好ましい見た目の美しいものを選ぶであろうこの精神、あまりにも辛く、しかしこの精神も、今の私の肉体が違ったら受け止め方も違ったのだろうという淋しい事実、そこで苦しみ反抗しようとするものを愛してくれるゴシックの精神。しかしそれに甘えるとゴシックはきっとそっぽを向いてしまうので、むずかしい。

化粧しても醜さは解消されない、つまり、いかなる心がけや人為によっても肉体的美醜は変更できないという、精神が肉体に敗北する瞬間の絶望の描写である。

『ゴシックハート』高原英理

その通りで辛い。精神や意識のありようで肉体は変わらない。肉体があってそのように思う精神ができるだけだから。こういった視点からさまざまな作品について意見が述べられており、不条理な差別の要因として美醜を持ち出すことにも触れられている。不条理な差別で最も身近なもの、特に平和ボケしているような私にとってはまず美醜がある。就活や社会においてひしひしと感じる。意識で扱えない肉体から逃げ出すためのサイボーグ化についての話も面白かった。

確かな重みを持つ物体であり確固として存在するが、生前の他者の意識と人格はそこにない。だが、それを前に、人はただ「もの」とだけ受け取ることは難しい。

『ゴシックハート』高原英理

意識のなくなった肉体として死体がある。しかしそれをただのものとしては扱えない。これも観測できる事実としての他社には人間の見た目、そして意識が見えないことの証拠でもあるのだろう。猟奇や残酷の対象となる肉体は、意識の根源であるから、意識への暴力にもなりうる。その辺の話はあんまりなかったような気がするので、もうちょい自分で考えてみても良いのかも。無垢であることを求められた人形、主体を持たない少女への憧憬などの言及はあったが、そこと血肉の関連性や代替的な部分も気になるところではある。筆者の著作を漁ろうかなと思う。

肉体と聞くとあまりにも肉欲、性欲、無用の執着であると考えたい、そうであると信じたい自分がいるが、世界はそんなことはない。そんなことはないんだな〜。そんなことはない世界を生きていくしかないんか。でも意識がこんな感じになってしまっているのも肉体のおかげ(せい)なので、肉体も愛そうと思えば愛せるし、肉体の変容をもって意識の変容を望んではいない。これはポジティブというより余りある自己愛、自分に向き合うことを、自分について考えすぎる恐ろしいナルシスト、悲しいかな……

アンドロギュヌスと恋愛

この名前でパッと解らないかもしれないけど、アンドロギュヌス(私はアーバンギャルドの『アンドロギュノス』という曲で知っていた)とは両性具有のこと。ギリシャ語で男性をアンドロ、女性をギュノスというらしい。
先ほどもちょっと述べたが、私は少し性欲について潔癖なきらいがあり肉体や肉欲を蔑む傾向がある(なおしたほうがよい)。かといってアンドロギュヌスに憧れがあるわけではない。あるわけではないが、肉欲的なものや男だから女だからを求めるくらいならこういう不安定さがいいだろうとかは思ってしまうかもしれん。まあここで言及されているアンドロギュヌスについてはそういうふわふわしているようなものではないが……

このこと自体が、アンドロギュヌスという憧憬の反日常性を示している。それは例えば、恋に恋しすぎる少女が、現実の恋愛の妥協の多さを見てそれを軽蔑するのと似ていないだろうか。アンドロギュヌスは、想像裡になければならない憧憬であったということだ。アンドロギュヌスとは一にして二(すなわちそれは魔術的には全ということだ)たらんとする欲望の象徴であって、決して二にして一たらんとする欲望の象徴ではない。

『ゴシックハート』高原英理

結局色々付き合ったりしていた割に今恋愛に呆れてしまい非・ロマンチストとなってしまった私も恋に恋しすぎていた少女だったのかもしれない。そう思うと、少女漫画を楽しんだ恋に恋しすぎる少女は、多くがセックスなどの壁で非・ロマンチストになってしまうんではないだろうか。バックラッシュのような男性への軽蔑などが……

 ところで、アンドロギュヌス願望者たちが必ずしも「恋愛」を嫌悪するわけではない。彼らにも愛する相手はありうる。ただ、その関係が固定的となり、求める者と与える者、愛する者と愛される者の役割が決まり、ひいては完全なしかも硬直した権力関係そのものに移行してしまうのを厭うだけなのだ。
しかし、そのようにならない「恋愛」は皆無に近いため(というより、彼ら・彼女らにとってそれは皆無と感じられるため)、彼ら・彼女らは「恋愛」一般に点が辛くなり、遂にはそれを軽蔑するに至る。こうして、より強いアンドロギュヌス願望は次第にロマンティック・ラヴ・イデオロギーを排除してゆく。
 彼ら・彼女らを窒息させること、それは必ず「役割の固定」である。

『ゴシックハート』高原英理

ここがもう本当によくって、喜んで友人に送りつけた。確かにね〜と暫し盛り上がる。そう、男性とか女性とかに辟易している人間たちの多くはその性別の差、言ってしまえば肉体の差で意識に差を作り出す、言って終えば権力の差といったものに辟易しているんではなかろうか。そういう点で、この、交際という点で固定される権力関係はかなり厳しい。肉体に囚われている。性別なんていうものも肉体に規定され、意識も肉体に規定される。肉体だけが自分の中で最も客観視される、他者から観測される自分自身である。この筆者は、結局こういうことだからすました感じはやめなさいとか、そういうことが言いたいわけではない。そういったことに反抗する気持ち、批判する気持ち─そういったゴシックを愛しているのだと思う。怒られてしまう特性を持つ作品が好きだった場合、その作品を好きだし正しいと庇うよりは、怒られて当然であると述べたほうがその作品に真摯だと感じるようなもので、筆者はその反抗を書くために真摯に述べているのであろうと思う。言葉を全く推敲していないし洗練もされていないので、私は「文体」のない、ゴシック精神のない文章をこう並べ続けてるのが申し訳ないです 肉体という意識の限界を超越したい、そういうゴシックハートへの憧れは尽きない

差別周辺

例えば、心理学の講義で先生が「戦争をよく知らないのに戦争反対と述べることの愚かさ」について話されたときに、最初は思わず反射で「知らずに賛成よりも反対の方がいいでしょう」と感じてしまった。しかし、やはり文章を考えながら自分をまとめようとするとそんな問題ではない。人間の歴史を振り返ると戦争が多く割り込んできており、人間と戦争はセットだから。セットだから、潔癖のように戦争を自分から離そうとして「反対」と述べても全く意味がない。ずっとそばにあるし、それに我が大学の大学生ならもっと深く考え込めるはずです考えなさいという主旨であったとようやく気づく。

ゴシックハートは差別の問題を孕んでいる。差別は、たまにすごく綺麗になる。そこについてもしっかり述べられている。

 なぜか? それはヴィクトリア朝文化が、それを成立させている差別そのものへの嫌悪を忘れるほどに優れた様式美を作り上げていたからとしか私には思えない。
(中略)
 差別者が汚く愚かなのであればただ憎むだけで済む。しかし、決して認め難い不平等と差別が最も魅力的な様式とともに描かれるという物語的誘惑を、完全に拒否できる人はどれだけいるだろう。

『ゴシックハート』高原英理

ゴシックの愛好する建築など全ての雰囲気に、差別の存在が無臭であるわけがないとは思っていた。し、引用部分はまさしくその通りであると感じる。安い衣服がある差別の上に成り立っているとき、じゃあその衣服を選ばないという選択肢があっても安いに勝てなかったりする。差別は魅力的な面が多く、さらに物語的な部分が追加されれば余計に。大英博物館の展示品だって、美術館の展示品だって、言い出すとキリがない。日本は敗戦国だからそういうところには気づけないが、先進国かつ戦勝国なんかは、特にヨーロッパのオリエンタリズムばりばりなところに行くと差別はより強烈に、比例してより魅力的に見えるのだろう。

 差別を糾弾することなど誰にでもできる、そうではなく、敢えて最悪の、差別の美しさ甘美さ、その忘れ難さを、アーティストたちは存分に見せつけてやればよい。アートの本当の意義は、前に立つわれわれ自身が、決してその外側にいるのでないと知らせることだ。
 ただ非難して終えてしまえるような問題はもともと本質的なものではない。自らそれに惹かれ、その汚れた喜びに我を忘れてしまうような極悪だけを見せつけよ。
 上品かつブルジョワ左翼的でリベラルらしさを装う態度がいかに世界に無力か、美的様式に向けて人の意識は、「いや、これは別」という言い訳のもと、どれだけ容易く「ずる」を行うか、それを我がこととして意識もしない者たちを私は許さない。

『ゴシックハート』高原英理

かなり崇高な文章だと感じませんか?私は感じる。この文章はこの本の中で最も崇高なゴシックハートを感じる。かなり最高。こういう力のある文章はここだけにとどまらず、他にもあるので読んでください。
そう、差別って思っているより身近で、でも「いや、これは別」と言っている自分が想像つくのが本当に苦しい。何事も自分のそばに入ってきて、自分の利害関係の範疇に入ってきた場合、どのようにして選ばないように、惹かれないようにできるのだろうか。怖い。そうなることを望みなさいと要請してくる社会からあえて逃げ出す、抜け出せない肉体の牢獄から逃れるために肉体を意識で操作する、全部苦しいが、それもゴシックと思えば愛せるのかな

おまけ


あ〜面白かった。グノーシス主義や三島も興味の範囲内だったので全部良かった。攻殻機動隊やエヴァンゲリオンといった私でも知っている作品群にゴシックの目線で批評や考察、感想を述べる部分なんていうのは大変面白く、ここに出てきた知らない作家の作品を是非見たいという気持ちにさせられてしまった。良い出会いをした。
全体的にゴシックの話をしていく中で、最後のエピローグが一番胸を打たれた。ゴシックな記憶、これまでの文章とは比べ物にならないくらい崇高な意識と血肉を感じさせる文章と葛藤がある。
一人暮らししたら持っていく本に追加された。嬉〜

おしまい。

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