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スピリチュアリティと覚醒

かつて、ヨーガについて調べていたら、実際の歴史のあまりの浅さに驚かされたことがある。よく見かけるのは4000年の数字だ。

しかし実際にはゴータマ・シッダッタが無我説を説いてから6~700年もあとの紀元4世紀頃に「ヨーガ・スートラ」が著された。現代に伝わるヨーガの基礎は、この書籍を起源としている。

これに気づいたのは、ある理論の考案者を探していたからだった。
現代のスピリチュアルの最先端は「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」に代表される、ゴータマ・シッダッタと同じ「無我説」である。

私はてっきりゴータマ・シッダッタの無我説の使い回しか、現代風のアレンジとして暗黙の了解となっているものであろうと考えていた。
ところが、西洋で乱立する無我説は、ゴータマ・シッダッタを引き合いに出さないばかりか、キリスト教学風にアレンジさえされている。それらに見られる「顕在意識や潜在意識のコンプレックスを取り払ったあとに残る潜在意識は神聖なるもので本来の自分であるが、自分で認識することはできない」という考え方は、確かにゴータマ・シッダッタが明言したものとは似ても似つかないものだ。

彼らのいう「潜在意識は神聖で本来の自分」という考え方の考案者探しは、心理学やニューエイジ・ムーブメント関連を調べればすぐに見つかるだろうと考えていたが、私の考えは浅はかだった。確かにユングも「神的自己」や「元型」などの考え方はまさに彼らの考え方と似ている。似ているのだが、ユングのいう「個性化」に至った場合にどうなるかまでは、ほぼ無理だと考えていたユングは語っていないだろう。

ニューエイジ・ムーブメントの担い手のひとり、パラマハンサ・ヨガナンダがインド哲学の「本来の自分」理論を欧米に紹介した可能性が高い。ならば、ゴータマ・シッダッタではなく、ヨーガからの伝搬と私は考えた。そこで、インド哲学を当たったのだ。インドには六派哲学があり、サーンキヤ学派やヴェーダーンタ学派が似た理論を展開していた。

私は専門書に目を通し、慎重に分析した。
サーンキヤ学派は紀元4世紀(紀元前ではない)、ヴェーダーンタ学派は紀元8世紀(紀元前ではない)の成立である。考案者を探すなら古い時代のほうがよい。

ブッディは、プラクリティから展開して生じたもので、認識・精神活動の根源であるが、身体の一器官にすぎず、プルシャとは別のものである。ブッディの中のラジャスの活動でさらに展開が進み、アハンカーラが生じる。これは自己への執着を特徴とし、個体意識・個別化を引き起こすが、ブッディと同様に物質的なもので、身体の中の一器官とされる。アハンカーラは、物質原理であるプラクリティから生じたブッディを、精神原理であるプルシャであると誤認してしまう。これが輪廻の原因だと考えられた。プルシャはプラクリティを観照することで物質と結合し、物質に限定されることで本来の純粋清浄性を発揮できなくなる。そのため、「ブッディ、アハンカーラ、パンチャ・タンマートラ」の結合からなり、肉体の死後も滅びることがない微細身(みさいしん、リンガもしくはリンガ・シャリーラ(liṅga‐śarīra))はプルシャと共に輪廻に囚われる。プルシャは本性上すでに解脱した清浄なものであるため、輪廻から解脱するには、自らのプルシャを清めてその本性を現出させなければならない。
(中略)
涅槃(寂静、寂滅。輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福)は、プルシャ(自己)がプラクリティ(世界)に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(独存、カイヴァリヤ)だと考えた。

出典
サーンキヤ学派 - Wikipedia

「本来の自分」といった表現はないが、プルシャが「本性上すでに解脱した正常なもの」という表現は、「奇跡のコース」や「ノンデュアリティ」でいわれる「顕在意識や潜在意識のコンプレックスを取り払ったあとに残る潜在意識は神聖なるもので本来の自分である」という考え方に一致する。しかし、続く文章に「輪廻から解脱するには、自らプルシャを清めて」とあり、すでに矛盾している。

さらに気になるところとして「ブッディ(Buddhi, 覚)」とあるが、清浄なプルシャとは別物らしい。ゴータマ・シッダッタは「ブッダ(buddha, 覚者)」と呼ばれていたから、サーンキヤ学派はゴータマ・シッダッタの成道を否定し、仏教と袂を分かつ思想を展開している。これはまさにゴータマ・シッダッタを意識している。カースト制度を否定したほど革新的な仏教が一勢力を数百年も保っていた事実は、よほどの尊敬を集めないと実現できないことから、ヨーガの一勢力としてのブラフマン教(バラモン教)があって、仏教もゴータマ・シッダッタがヨーガの行者として認知され、ヨーガの一勢力としての扱いであったと考えると、仏教の衰退は勢力争いの敗北ととれる。仏教が衰退するまでは、勢力争いのなかでヨーガの行者としての論争が繰り返されたと考えられる。いわゆる「相手を論破するために、同じ疑問と向き合ったライバル」ということだ。

いずれにしても、現代のスピリチュアリティの最先端とはちがう理論であることが分かった。ヨーガにもゴータマ・シッダッタにもその源泉を見出すことができなかった。
やはりユングの分析心理学に立ち返るしかないようだ。ユングは本来の自分としての神的自己を仮定し、コンプレックスにより形成される自我が神的自己を認識できないが、潜在意識からのぼってくるインスピレーションや夢として、メッセージや導きが示されると考えた。現代のスピリチュアリティの最先端における理論は、ユングの「本来の自分を顕在意識で認識することができない」「他者のように、顕在意識とは別の意識として作動し、元型の姿で現れる」の応用といえる。ユングはそう語っていないが、彼の分析心理学を宗教や哲学に応用すると、現代のスピリチュアリティの最先端の形になったということなのだろう。

このことから導き出される結論として、以下の3つの理論に区別することができる。

(1)ヨーガ(正統ブラフマン教、現在のヒンドゥー教)として、「本来の自分プルシャと、自我としてのプラクリティがあり、プルシャを清めることで輪廻から解脱できる」(本来の自分を認識できないが、自我に無関心になることで、本来の自分を清める考え方)

(2)仏道として、「本来の自分アートマンと、自我としての煩悩があり、煩悩の元になる執着を手放すこと(自我を清めること)で輪廻から解脱できる」(本来の自分を認識できないが、自我に向き合うことで、自我を清める考え方)

(3)現代のスピリチュアリティの最先端として、心理学理論を応用した「本来の自分である神的自己と、コンプレックスにより形成された自我があり、自己と自我を統合することで(コンプレックスを解消し自我から解放されることで)、個性化(自己実現)を達成できる」(本来の自分を認識できないが、本来の自分にお願いすることで、自我を清める考え方)

これはヨーガ派、仏道(ゴータマ・シッダッタ)派、ユング派といえるほど明確なものである。

一般に明確に打ち出されていないだけに、混乱と誤用が常態化しているといわざるをえない。

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