展示はメッセージであれ -水戸芸術館「中谷芙二子 霧の抵抗」展を観て-

展示はメッセージである。
故に、複数の場面を連ねて一つのストーリーを組み上げる演劇のように、或いはレディメイドの組み合わせで一つの意味を投げかけるアート作品のように、作品・資料・キャプションを組み合わせて「伝えたいこと」を構成する。展示とは、キュレーターによる創作物である、といってしまうと多少過言かもしれないが、少なくともその要素は否定できない。

水戸芸術館「霧の抵抗 中谷芙二子」展は、そんなメッセージの「伝わらない」展示だった。

中谷が自然から離れていく人間社会について語った文章から始まるこの展示は、示したいであろうことの過度な飛躍が連なる。

霧の彫刻の根本となる中谷の思想はエコロジカルで、ある種ユートピア的なものだ。「科学とアート」をテーマに取り込もうとするその70年代的試みの裏付けに挑む思想と言い換えてもいい。当時、作家によって著された文章資料と、いくつかのキャプションによってその思想が示されようとする。加えて、人工霧の実現に向けて技術的試行錯誤がなされた記録資料も展示されており、霧の彫刻が掘り下げられる。東京国立近代美術館での「ゴードン・マッタ=クラーク」展を彷彿とさせるが、キャプションによる補助線があまり引かれておらず、分かりにくさの中に放り出されたような感覚を与える。

そして霧の彫刻の実作品が配置され、中谷の作品に込めた精神性が詳らかにされていくのかと思いきや、その直後、突如として世界各地をテレックスで繋ぎ10年後についての質疑応答が交わされた企画「ユートピアQ&A 1981」の展示が現れる。そしてその次の空間は中谷が運営していたビデオアートギャラリーSCANに関する資料展示が行われているが、そのそれぞれの中谷の試みを繋ぐ通奏低音も意識・社会の変遷も見えてこない。特に序盤が霧のコンセプトにフォーカスされているため、唯一根底思想として推察できる科学と芸術の関係もぼやける。点としての中谷の活動に関する資料がそれぞれただ羅列されているような展示構成だった。

端的に言えば、
中谷は
・霧の彫刻を作った。
・Q&Aの企画を作った。
・ビデオアートギャラリーを作った。
という箇条書きのような展示であり、特にSCANに関してはただのギャラリーの活動紹介になっており、その目的や設立経緯は全く見えてこなかった。

日本のメディアアート史を頭に入れた背景のある鑑賞者であれば、今回の展示からはなんとか、霧を用いたアーティストとしてではなく、もっとメタな、E.A.Tのプロデューサー、霧のプロジェクトのディレクター、テレックスの企画のプランナー、SCANの運営者といった「高い視点からのマネジメント能力」を持った中谷の才能が読みとることができる。しかし、この展示の方法では、フォーカスがあちこちに向けられ、中谷の活動の根幹を見据えることなく、表面に表出した内容に振り回されてしまうことだろう。
例えば、一般受けのする霧を起点に現代美術やその作家性に鑑賞者を誘導する、といった展示の目的が仮に設定されていてもそれは肯定されうると思う。ただし、誘導するにもテクニックが必要であり、況んや、アートを仮にも学んでいる人間にすら伝わりにくい展示ではその目的は達せられないだろう。

ただし、そこにある資料に関しては一級品であり、テレックスの企画もかなり読み込める良企画だった。特にSCANの資料などは垂涎ものであった。だからこそ、それを活かせなかった展示に残念な気持ちを抱いてしまうのだが……。

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