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こんな本を読んだ②ー『ランサム』ジェイ・マキナニー

セックスもドラッグもロック(ンロール)も、今の世の中に依然として残っているものなのに、その三つが揃うと、急に時代が遡ってしまう気がするのはどうしてだろうか。ジェイ・マキナニーが本作を発表したのは1985年。デビュー作『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』の翌年のことである。

京都を舞台に、アメリカ人の主人公=ランサムが空手を学びながら英語講師として生計を立てる、日々の暮らしを描いている。まるで最初からウケを狙ったかのような設定はいただけないが、マキナニー自身が2年間日本で暮らしてこともあってか、その描写に首を傾げたくなるような箇所は特にない(勿論、ファンタジーとしての日本は多少あるし、デフォルメされた方がウケは良いと見越したうえでの判断であろう)。芸者のいる場所よりもトルコ風呂に足を運んでしまう点からも、マキナニーが「覚えてしまった」日本観が垣間見える。

さて、冒頭にも記したセックス・ドラッグ・ロックンロールであるけれど、この小説にはそのすべてが出てくる。それらは文中で存分にその野暮ったさを発揮し、小説を古びたものに変えてしまっており、最早無計画に登場させているようにしか思えない(「俺の閻魔帳に記してやったぜ」みたいな訳も相当酷く、その現象に加担している)。銀座線で華麗なるボーイ・ミーツ・ガールを描いてみせた『モデル・ビヘイヴィア』はやはり傑作だったなと改めて感じた。

それを除けば、そこまで酷い小説ではないと思う。例えば、この小説に登場する人物たちは、度々身体の一部(若しくは全て)を剥き出しにする。空手の稽古に励むときの、アスファルトに擦り付けられる裸足。銭湯で露わになるランサムの身体、ヤクザの身体(刺青)。トルコ風呂で見やる女の裸と、そこに見つけ出そうとしてしまう彼女の傷。まくられた服の下に点滅する注射器の跡。彼/彼女たちは、自らの身体と共に生きていかなければならないことに、嫌という程自覚的なのではないか。そう思わされる瞬間に満ちている。

この小説を読んだ者なら誰しも、最後に描かれた思わぬ光景に戸惑うだろう。ただ、マキナニーが偉いのは、その対象に日本人を選ばなかったことだ。二人のアメリカ人が取ってしまった馬鹿げた行動。是非とも、三池崇史の映画『DEAD OR ALIVE 犯罪者』(1999)も併せてご覧ください。

text by K.M.

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