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神話のはじまり―「クトゥルフの呼び声」読後メモ―

今回の作品
『クトゥルフの呼び声』(The Call of Cthulhu,1926)
(収録―H・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集2』、宇野利泰訳、東京創元社、1976年)

(本書から引用するときはページのみを付す)

 前回は『インスマウスの影』を読んだので、全集の収録順に沿うのであれば次は『壁のなかの鼠』になるのだが、いわゆる傑作群を先に読んでおこうという気分になったので、その神話体系のはじまりである『クトゥルフの呼び声』を読むことにする。
 このシンプルな短編は、しかしながら無際限に広がるクトゥルフ神話の、確かな出発点である。


恐怖のスタイル

『クトゥルフの呼び声』はクトゥルフ神話の出発点として、その大綱を知るに欠くべからざる作品であり、『エーリッヒ・ツァンの音楽』は掌編ながら、前期の作風を純粋な形態で示し、愛好すべき作品である。

p.301、訳者あとがき

 フィクションとしての構造により興味を惹かれたので、内容については簡単に。
 クトゥルフ神話の基本要素の見本といえるであろう作品。
 考古学的知見、密かに行われる忌まわしい儀式、奇妙な異変、そうしたものを通してこの世界の闇に潜む大いなる脅威の存在が示唆され、恐怖が忍び寄る。クトゥルフ神話の基本といえるものだろう。(いわゆる宇宙的恐怖か。)
 とはいえ、初期の短編故か、ところどころ荒削りな印象を受けた。特に姿を現した怪物から逃げ出すシーンはどこかチープさ(B級感というべきか)を感じてしまい、興醒めだった。この点、追われる恐怖の描き方は『インスマウスの影』では確かに進化しており、今後読み進める作品においても、恐怖と向き合い続けたい作家の成長に期待したい。

登場人物としての読者

そしてぼくの遺言執行者に、ぼくの死後、この記録を発見したときは、俗人どもの目に触れぬよう慎重に処理してしまうことを依頼しておく。

p.61

 構造について。いわゆる入れ子構造になっているのだが、やはりそのホラーとの相性のよさたるや。
 本作は誰かの書いた手記として構成されている。(正確には故人であるフランシス・ウェイランド・サーストンの手記として副題が付されているらしい。よって以降サーストンと呼ぶ。)。そしてその内容は2つの手記についてである。
 三部構成のうち第一部はジョージ・ガムメル・エインジェル教授の残したノートの前半部分についてである。この第一部をさらに分解すると、ノートに書き記された教授を訪ねてきた青年の奇妙な夢の話、教授の調査資料、新聞の切り抜きといった要素で構成されている。つまり手記について語る手記として入れ子になっており、さらに語られる手記もまた新聞記事などさらなる入れ子を含んでいる。
 教授のノートの後半について扱う第二部も同様である。入れ子となった教授のノートが、さらにルグラース警部の体験談というさらなる入れ子を含んでいる。
 そして第三部は新聞記事を入り口としてヨハンセンの手記が入れ子として語られる。
 こうして2つの手記を読み解いたサーストンは自身の正気のテストとしてこの手記を書き上げる。これらの手記で語られたすべての背後に潜むものに気づかないふりをするために。
 そしてその手記が今我々の目の前にあるのだ。我々はこの手記をサーストンがそうしたように読み解き、その背後にいる存在に気づいてしまう。そしてエインジェル教授が、ヨハンセンが、サーストンがそうなったように、自身に迫り来る死の気配を感じる……。
 つまりは手記について語る手記として提示されたことによって、読者自身がその入れ子構造の最上部のレイヤーに加わり、登場人物の一人として物語が駆動している。『金枝編』など実在するものがその入れ子に含まれていることも、この構造をより強固にしているだろう。ホラーの常套手段といえるかもしれないが、鑑賞者を物語に取り込み、"ほらあなたの後ろにも……"というテクニックを小説のスタイルでやるよい例だろう。最近のホラゲもこういうメタ要素取り入れてるの多いよね(ウェブカメラをジャックしたりとか。)

理性の敗北

いまにして思えば、これらの奇妙な報道記事が真相のすべてを語っていたのだ。あの頃のぼくは頑な合理主義思想の虜であったがために、この重大な事実を無視して省みようとしなかった。

p.22

 あといくつか簡単に。
 引用部のように合理的な、理性的な判断が打ちのめされる記述が印象的であった。理外の怪物に侵略される恐怖を描くので当然といえるが、しかし怪物それ自体への恐怖以上に、"自身の理性が役に立たないこと"への恐怖といった方が適切と感じる。人間(ラヴクラフト的にはWASP)であることへの絶対的信頼と優越感、そしてそれを打ち砕かれる恐怖が根底にあるのか?

制御不能なデザイン

若い彫刻家は恐ろしい夢を説明するにあたって、そこに現れた線と形が全部狂っており、われわれの世界のものとは別個の、非ユークリッド幾何学な球体と次元を連想させられたと語った。

p.54

 先述した理性云々とも関連するかもしれないが、建築についての言及が気になった。
 ウィルコックスを訪ねた際のそのアパートメント・ハウスについての描写やヨハンセンの住む家についての描写など、日常的描写の乏しい本作の中でなぜか取り上げられていることに少し違和感を覚えた。これは隠された都市の理外の構築物と対比させるためか?
 残念ながら僕は建築についての知識が乏しいため(というかまるで無知なため)、ジョージ王朝風の尖塔やら擬似十七世紀フランス様式やらがどういった性格のものかまるでわからないが、石の都の構築部を未来派絵画と関連付けているあたり伝統と格式といった具合の様式なのか?どこまでも保守的な男としての表れなのだろうか。

おわりに

 本作で示された恐怖の在り方は確かにクトゥルフ神話体系のはじまりといえるだろう。その点ではまさに記念碑的作品である。
 一方で小説としてはまだ荒削りな部分も感じる。しかしながら構造レベルでは間違いなく一級品であり、ここから恐怖と向き合い続けたラヴクラフトがどのようなら作品に辿り着くのか楽しみである。
 しかしこの英国紳士に付き合うには僕はまだまだ知識不足らしい。建築勉強するか……


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