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地球市民としての「新しい日常・正義」考(最終回) 〜 SDGs・探究への招待 #047

3 誰がファシズムを産み出すのか?

 紀元前に書かれたと言われるプラトンの『国家』という本でも僭主政治は民主主義が生み出すと書かれてありますが、ファシズムは民主主義の中から生まれます。衆議は衆愚に陥りやすいものです。そして大衆は、「○○ファースト」などといった一見わかりやすいワンフレーズポリティクスを多用する政治家をカリスマへと祀り上げていきます。

 大衆こそが独裁者をつくりだします。

 そして例えばSDGsの「誰も取り残さない」といったような利他主義は、たやすく同調圧力と均質化の根拠へとすり替えられます。ファシズムは保護主義的でありながら、その対極にあるグローバリズムを装います。

 かつてファシズムが台頭したとき、社会に蔓延したのは「純血」と「正義」でした。「正義」を煽ったのはファシスト党であり、ナチス党ですが、「正義」を行使したのは当のイタリアの市民でありドイツの市民でした。日本にいたっては、政党ですらないなにものかを、市民がちょうちん行列で鼓舞し、隣組で「正義」を行使し合いました。
 ナチスは「正義」を行使する過程で焚書の祭典を行いました。文字通り山のように積まれたあらゆる学術書や思想書、哲学書、芸術作品に火を放ちました。その巨大なキャンプファイヤーに、本を投げ込んでいったのは、市民です。
 ちなみに同じころ、日本でも例えば谷崎潤一郎の小説や源氏物語など、たくさんの文学書や思想書が発禁本になりました。警察や憲兵隊が図書館に来て直接没収したりもしたそうです。

 こうして学問の自治自由は権力によって圧殺され、文化教養が衰退したのですが、その暴力を根拠づけ支援していたのは他ならぬ「正義」を掲げる私のような(そしてみなさんのような)「善良な」一般市民でした。

 政治家は行動しません。煽(あお)っただけです。そして煽る装置としてマスコミが機能していました。

 文化教養が衰退すると必ず戦争や紛争、内戦が起きます。ただの馬鹿になるんですね。みんな勝つ戦争は大好きですが、負け始めると、まるでインスタに誹謗中傷を書き込んだ人たちが自分の発言を削除するかのようにいっせいに掌を返して「私たちを戦争に導いた政治家は責任を取れ」「平和のための革命を起こすときだ」と逆のことを叫び始めます。私たち「善良な一般市民」が最も厄介な存在なのかもしれませんね。

 なぜこんな話をなぜしたかというと、あらためてみなさんに、

「市民としてのみなさん自身」

について考えてほしいからです。もう一度、「新しい日常・正義」考の第1回の冒頭に列挙した事例を読み返してみてください。そして、政治家や著名人や芸能人ではなく、私たち一般市民がおこなっていることを調べてみてください。

 本当に私たちは、いつかSDGsが掲げている「地球市民」になれるのでしょうか。

 テレビでも、張り紙でも、ネットのハッシュタグでも連呼されているあらゆる呼びかけの大合唱は、そのどれもが本当に社会をより良くするために必要な「正義」なのでしょうか?

 一緒に歌わない者や音程をはずした者は不謹慎であり、身勝手な者として正すべき、または忌避すべき対象なのでしょうか。そしてそういう大合唱をする社会を私たちは本当に「日常」にする気なのでしょうか。

 あらためて高校生、大学生のみなさんに考えてほしいです。

 私たち社会人以上の大人が、未知のウイルスの怯えながらよってたかって築いてしまった「新しい日常」「withコロナ社会」は、こんな社会です。若いみなさんはどう思いますか?
 若いみなさんがこれから10年がかり20年がかりで築いていく「新しい日常」のビジョンを、今から描いていってください。
 その時には「withコロナ社会」なんてしみったれたことを言うのではなく、「ポストコロナ(脱コロナ)社会」を実現してください。ここで使っている「脱コロナ社会」は「コロナなき社会」なんていう都合のいい意味ではありません。

 「ポストコロナ(脱コロナ)社会」は、社会システムも、そして何より私たち市民個々人が、いたずらに怯えたり不安に陥ったりしてパニックや差別や排除に走らないタフさと賢さを持った、本当の意味でSDGs的にレジリエンスな社会です。

 地球市民としての「新しい日常・正義」考はこれで終わりにします。最後の最後まで読んでくださってありがとうございます!


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