マージナルマン・ブルーズ #2
1970年代に「OKINAWA」が「オキナワ」になろうというころには、アメリカ統治存続論や日本復帰擁護論、日米から独立するという沖縄建国論など、まじめに島の人々は議論した。けれど初めからシナリオは決まっていて、結局、琉球政府は消滅し、「沖縄」として日本復帰した。ご褒美に時の首相はノーベル平和賞をもらい、沖縄海洋博覧会が開催され、車は左車線を走るようになり、ドル決済OKの店も徐々に減り、真夜中にアメリカ軍の戦車が国道58号線を走ることもなくなった。
しかしヨミタンでは村人の手によって日の丸が焼かれ、その仕返しに村出身の人たちが本土資本の企業に就職できなくなったり、あいかわらず中学生や高校生たちがアメリカ兵に乱暴されたり、大規模な抗議集会が開かれたり、アメリカ軍基地が一部移転したり、サンゴが死滅したり、アメリカ軍のヘリが沖縄国際大学に墜落したり、その際ローターブレードからストロンチウム90が漏れて放射能汚染されたりしていた。ちなみに戦後沖縄での米軍機墜落はこのときで41件をかぞえた。アメリカ軍ヘリの墜落事故で小学生11人が一度に死んだこともあった。それは例えば日本中がその理不尽さに悲しみ怒りさえした池田小事件で犠牲になった児童8人という数を上回るものだった。
海兵隊は夜ごとにバーで暴れ、Aサインの看板に意味が無くなった後もそれは続いた。
それから、米兵に乱暴されたり、乱暴された上で殺されたりした女性たちは、下は生後9ヶ月の子どもから6才の幼稚園生、小学生、中学生、高校生、大人と、事件として知られているだけでも軽く120件を超えた。それらの異常で猟奇的で残忍な暴行や殺人は、本土のぬるま湯どっぷりの人たちが、
「事件に大きいも小さいもない!」
と叫ぶアオシマ刑事のセリフに感動したり、
「18才の加害者少年Aの犠牲者となった、17才の被害者の少女ジツメイさんの気持ちを思うと胸が張り裂けそうです!」
と、アイドルくずれの女レポーターが前髪を気にしながら話すのにうなずいたりしながら、たった1件の事件で大騒ぎしている間に何件も起きていた。
生後9ヶ月の子どもから6才の幼稚園生、小学生、中学生、高校生、大人たち被害者らは、近所のコンビニ前に転がっている虚弱な自称ワルたちにではなく、日常的に本当に人を殺している兵士たちに暴行を受けていた。
新自由主義という言葉さえ知らないような本土のコメンテーターが、それでも自己責任論や彼女たちの落ち度を口走りさえした。
そして多くの善良な人たちは、こういうグロテスクで救いのない事実から目を背けつつ、世間知らずの学者たちと一緒に「センソー反対ベーグン出て行け」とラップしたりセンスのかけらもないゴミのような替え歌で絶叫していた。そのお花畑ぶりは、心清らかで心優しい大人たちの心と、無垢で早熟な一部の中高校生や、やや勉強不足で自己達成感を慢性的に得られていない世間知らずの大学生の無垢な心を鷲掴みにした。
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